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フェミニズム的赤毛のアン論

これはスウェーデンの Uppsala(アプサラ?)大学の英米文学科の博士論文として書かれたもの。実はこの博士論文は2巻から成り立っており、1巻では主に赤毛のアンとその続編のシリーズを扱い、2巻では赤毛のアンの後に書かれたエミリーシリーズやモンゴメリのその他の著作について詳述されている。著者のオーマンソン(Åhmanssonは多分オーマンソンと読むのだろうと思う)は、長年にわたって文学的に不当に低く評価されてきたモンゴメリの著作にフェミニズム的視点から光をあて、これまでの評価を覆そうと試みている。(そのため多少躍起になり過ぎている感もあったが、数多くのモンゴメリ著作批評を読み込み、比較し、当時の時代背景を考慮しつつ、新しい視点から赤毛のアンを読み解こうという姿勢は非常に評価できるものだと思う。)

私がこの本を読むきっかけとなったのは、小谷野敦の『聖母のいない国』というアメリカ文学論を読んだことであった。その最終章で小谷野氏はモンゴメリの『赤毛のアン』を取り上げているのだが、そこでアンは平凡で家庭的で多少文学的素養に恵まれながらもこれといった大望を抱かぬが故に、日本の非エリート女性たちの間で絶大な人気を誇っている云々ということが書かれていた。つまり、アンが高学歴の上、社会的に大成功をおさめた知的なキャリアウーマンであったら、「二、三流の大学や短大を出た程度の、どちらかといえばおとなしめの女性たち(228ページ)」が、アンと自分とを同一視できなくなるであろうというわけである。アンが通った大学が二流どころであることも、日本の非エリート女性の共感を呼んでいるだろうとも小谷氏は推測している。
私は赤毛のアンに関する評論をその時初めて読んだのであるが、少女時代の愛読書がその他にどんな評価を受けているのか気になり出した。すると図書館でこの本が見つかったので読んでみた次第である。

オーマンソンは小谷野氏と全く逆の立場から『赤毛のアン』を語っている。
最初にも書いたが、彼女は『赤毛のアン』が書かれた20世紀前半のカナダという時代背景に注目し、そこから本が書かれた当時のアンの革新性について力説する。上に出てきた学歴についてだが、モンゴメリ自身はアンが(非現実的と批判されるほど)高い教育を受けたと認識しており、それについては「アンを読者の少女たちのお手本とするため(121ページ)」と理由づけている。そうすると、小谷野氏の「アンはその学歴的凡庸さゆえにも愛されている」という説は崩れてしまうわけだ。もちろんこれについては、時代の変遷及びカナダと日本という環境的差異のために、アンの高学歴が現在の日本で相対化され、さらにはその価値を減じてしまったという見方もできるわけだが。

また、小谷野氏やその他多くの批評家に指摘されていることだが、アンシリーズには恋愛や結婚、出産という出来事は何度も出てくるが、性的な側面については一切語られない。それだけではなく、『赤毛のアン』はある少女の成長物語(ビルドゥンクスロマン)だというのに、彼女が生物的・性的に成長していく様についても全く描かれていない。その御伽話的ありようがアンシリーズを永遠の二流作品、又は女子供の非現実的文学作品たらしめているという説にもオーマンソンは真っ向から反論する。20世紀初頭の西欧世界では、そもそも少女に青春期などはないと思われていた。つまり初潮を迎えると、一夜にして少女は一個の女性となり、周囲からもそう扱われた。そのような状況で、モンゴメリやオルコットといった女性作家が少女を主人公に据えた一定の型にはまった小説しか書けなかったことは仕方のないことであり、それ以外の小説を書こうとしても出版社からも読者からも受け入れられなかっただろうと、オーマンソンはモンゴメリを弁護する(69ページff.)。
しかし19世紀の、ヒロインの最後が結婚か死で締めくくられるしかなかった時代から20世紀の少女の成長物語へという過渡期の中で、ジレンマを抱えながらもモンゴメリは独特の緊張感の中でアン・シャーリーを生き生きと描ききったとオーマンソンは断じている。そして最後にアンは家に戻らねばならなくなるが、(作家としても)将来への展望が開けているというところで『赤毛のアン』は終わっている。

もし『赤毛のアン』が一作限りで終わっており、アンの将来が個々の読者の想像力に委ねられる形のままだったら、アン・シャーリー及びモンゴメリへの後世の評価も違ってきたかもしれない。しかし読者や出版社にせがまれ、モンゴメリは続編をいくつも書き続ける。そこでアンの魅力が薄れてしまうのはある意味仕方のないことでもあろう。生き生きとした想像力豊かな気性の激しい個性的な少女から、アンは平凡なよき妻よき母に(言葉は悪いが)なり下がってしまうのだから。少女時代にはアンと平等に接していたギルバートも、夫になれば男尊女卑的考えをちらつかせる保守主義者になってしまった。
モンゴメリ自身、自分が受けた保守的なしつけと女性の(経済的・精神的)独立という問題の間でうまい解決法を見つけられなかった。彼女は社会的地位及び知的レベルの低い農民の恋人と別れ、独身でいるべきか結婚すべきか悩み続けた末、ある牧師と結婚する。この夫のユーアン・マクドナルドは憂鬱症を患い、二人の結婚生活は幸せなものではなかった。小谷野氏は、ユーアンが妻であるモンゴメリの作家としての成功を気に病んで憂鬱症になってしまったのではないかと推測しているが、真実は定かでない。いずれにせよ、離婚しても経済的には何ら困窮する心配のなかった人気作家のモンゴメリが、夫が死ぬまで寄り添い続けたという事実は、彼女自身かなり保守的な傾向が強かったことを示唆しているのではないかと思われる。(モンゴメリは夫に愛情を抱いてはいたが、本当の意味で愛していたわけではないと後に明言しているのにも関わらず、離婚しなかったのである。)
そういったジレンマが彼女の作品にも現れており、それがまたモンゴメリの限界でもあったのだろう。

そうすると、果たして『赤毛のアン』シリーズがオーマンソンの主張しているように高く評価されてしかるべきなのかどうか、やはり考えこんでしまう。モンゴメリ自身が時代の制約に囚われ、それを破ることができなかったという点で、『赤毛のアン』のシリーズが二流児童文学扱いをされても仕方がないのではないか。

いずれにせよ、著者のオーマンソン自身少女時代には『赤毛のアン』に熱狂し、何度も何度もアンシリーズを読み返したのだろう。彼女が大人になってもアンを愛し続け、アン(とモンゴメリ)をテーマにした博士論文を書いてしまうほどアンは大きな影響力を持つ人物でもあるのだ。モンゴメリの描いたアンは今でも生き続けているし、これからも世界中の少女(と一部の少年)たちを魅了し続けるだろう。
そういう意味で、アンの魅力を知っている(若しくは忘れていない)大人たちはいくらでもいるし、それほどムキになってアン一流論を主張しようとしなくてもいいのではないか。一流でも二流でも、自分が好きな作品及び作家なら、それについて好きなだけ論じればよろしい。「アンは決して二流の物語ではない、なぜなら……」と最初から命題を決めて論を展開していくよりは、「アンを二流物語と断じる人間もいるが、こういった局面から眺めると……」と論じていくほうがスマートで、最終的な答えも一流か、二流か、という二者択一に落ち着かずに済んで楽なのではないか。
そういった点で、オーマンソンはアンとモンゴメリの再評価を望むあまりに力み過ぎてしまったきらいがあるが、全体的には非常に読み甲斐のある興味深い論文であった。その他作品の内容的な解釈や、寓喩的な意味など、うがち過ぎと思われる部分もあったが、いくつかとても面白い論もあった。

他の『赤毛のアン』論と読み比べてみると多分もっと面白いだろう。次は本書の続刊と日本人の書いたアン論を是非読んでみたい。しかし続刊が図書館に置いてないらしいので、どこで手に入れたらいいのやら。自分で買うしかないのかな……。

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原題:
A Life and Its Mirrors -- A Feminist Reading of L. M. Montgomery's Fiction
Volume I     An Introduction to Lucy Maud Montgomery     Ann Shirley
著者: Gabriella Åhmansson (オーマンソン)
出版年: 1991

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