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「書く」ということ

本の題名(『「書く」ということ』)からして、文章指南の本かと想像していたら全然違った。著者はペンや筆を持って「書く」ところから話を進めているんである。そして文章作成機(これには「ワープロ」とルビがふってある)や個人用電算機(パソコン)を用いた代用書字という行為を徹底的に批判している。その理由がなんだか複雑なのだ。
本書によると、元々欧文文字のタイプを目的としていた機械で日本語の文章を書くこと自体が不自然なんだそうである。また、目が画面を追い、左右の手が文字盤の上を行ったり来たりしていては精神と体が分離し、作文にまともに集中ができない、などなど延々20ページにもわたってワープロ批判が書いてある。

なぜそんなに「書く」ことにこだわるのかと思っていたら、著者の石川九楊という人は書家であった。なるほど〜。この方は平野啓一郎の『日蝕』もただの難解漢字小説とばっさり切り捨てている。その理由を引用すると:

(見えないところでワープロによる日本語のローマ字化、仮名文字化が深化しているという文脈を受けて)
この分裂の間隙に生じているのが、不必要なまでの、漢語の乱用である。
近年高まる漢字検定ブーム、新人作家の一部に見られる難解漢字小説、これらは、無自覚の意識が、ローマ字や仮名文字に親和性を高める一方、無自覚の意識と分裂した意識が、逆に漢字や漢語に親和性を高めたところで生じる歪んだ現象であり、これを、漢字や漢語への関心が高まった、あるいは、新人作家の難解漢字小説をすぐれた擬古文などといって手放しで賛美できるものではない。いずれ、ローマ字や仮名文字との親和性を高めた無自覚の意識によって瓦解させられることが宿命づけられている中で、自覚された意識のみがほんの形だけ非現実的(ヴァーチャル)に漢字や漢語と戯れているにすぎないからである。

どうでもいいが、一文が長過ぎる。
それは置いておいて、平野啓一郎。彼の作品を私は全然読んでいないのだが、一般人に読めない漢字ばっかり使ってあるこむずかしい小説ということだけは知っている。私はその漢字、全部手書きできるのかね?という疑問をいだいていただけだが、彼の文語スタイルと人気をそういう文脈の中で解釈する向きもあるのかとちょっと参考になったようなならなかったような……。

引用文を読んでもわかると思うのだが、本文が長くて抽象単語が多いので、著者の言いたいことが自分にわかったのかわからないのか、わからなくなるのである。それでもはじめのワープロ批判にはまだ何とかついていけたのだが、そこから話が無文字文化の音楽、仮名文字の成立、朝鮮・中国の書字……と発展していくとギブアップ。自分の興味がそれほど向いていない分野の話でもわかりやすく書いてあれば、理解しよう、文脈を追おう、という気にもなるが、どうもそういう気をそがれてしまう本であった。

内容理解的には挫折。でも一応最後まで頑張って読んだので、まとまりはないが感想らしきものを書こうとあがいてみた。
一時期流行った丸文字や今よく見られる下手ウマ文字の解釈なぞは、それなりにストンとくる説明だったことを最後に書いておく。たかだか170ページの新書に書字、哲学、東西の文化における言葉の重み、東洋肉筆文字と西洋印刷文字などもりだくさんの内容なので、国語力が高く知的に欲張りな人にはお薦めの本(かも)。

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原題: 「書く」ということ
著者: 石川 九楊
出版年: 2002

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