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不安

裕福な弁護士と結婚し、2人の子供にも恵まれて何の不自由もなく暮らしているイレーネが、情事の後浮気相手のアパートからこっそりと抜け出すところから話は始まる。毎度毎度彼女はここから家に帰るまで不安に押し潰されそうな気になるのだが、今回はその不安が本物となった。浮気相手の別の恋人に掴まってしまうのだ。何がしかの金を押しつけて、イレーネは逃げるようにその場を去る。
恐喝者から逃れ、家に着いて一安心するイレーネだが、数日後いきなりまた彼女が現れる。今度はイレーネの本名も住所も浮気相手の名前も知られており、イレーネは相手の言うなりに金を強請りとられてしまう。この恐喝者の要求額は次第に大きくなっていき、しまいにはイレーネの大切な婚約指輪までも取られてしまう。ギリギリまで追い詰められたイレーネはついに決心を固め……。

これをサスペンスと称していいのかどうか実はわからないが、ツヴァイクはペーパーバックで121ページという比較的短い作品の中で、ある女性の平穏な生活が不安に支配されていくさまを過不足なく描き出している。それが見事なので、サスペンスに分類してみた。なぜツヴァイクは男性でありながらこんなに女性心理の描写に長けているのか、毎度のことながら感心させられる。

小説の主人公のイレーネは親に言われるままに結婚し、子供を産み、何の苦労も不自由知らずに生きているが、漠然とした息詰まりを感じていた。そんな中ある芸術家に出会い、ただのスリルを求める気持ちや退屈から彼と逢瀬を重ねていく。
こう書くとこれがただの不倫小説のように見えるが、ツヴァイクはむしろ、1人の女性が人生の危機に際して自分が当然のように享受してきたものの価値を初めて認識し、そこから更に自分がいかに無自覚で無関心な受け身の人生を送ってきたのかという事実に突然目を開かされるきっかけを描きたかったのではないかと思われる。その契機が見知らぬ脅迫者による『不安』なのだ。

不安にせきたてられるようにして、イレーネは様々なことに思いをめぐらす。特に「夫が情事について知ったら、どう反応するだろうか?」と何度も彼女は自問するのだが、8年間連れ添ってきた夫にもそれほどの関心を持ったことのなかったイレーネにはその答えが出せない。また子供たちが自分よりも夫を慕っていることにも今更気づき、初めて夫に対して羨望の念を抱く。
こうやってイレーネがひとつひとつの事柄に気づいていく過程が実に自然に描かれているのだ。イレーネのうかつさと臆病さの先に何が待っているのかが気になり、私はこの本を一気に読んでしまった。

結局婚約指輪を取り戻すことができなかったイレーネは、情事が露見することを恐れて自殺の決心をする。離婚して恥辱の中で生きるよりは、死んだほうがましだと思うのだ。こうしたブルジョワ女性のひ弱さを指摘しながらもツヴァイクは語り続ける。
遂に薬局で自殺用のモルヒネを購入したイレーネだが、突然その場に現れた夫に家に連れ戻されてしまう。そして夫はイレーネに、彼女の情事について知っていたことを告白する。子供たちのために彼女に家庭に戻って来て欲しかった彼は、かの女性を雇ってイレーネを脅迫させたというのだ。彼は彼女が全てを打ち明けてくれるのをひたすら待っていたことを告げ、強請りとられた婚約指輪を返し、むせび泣く彼女を慰める。

ツヴァイクはこの夫を最初から最後まで思いやりが深く、思慮があって、家庭的な夫であり理想的な父親として描いているのだが、実際に彼がしたことは随分えげつない。「君が僕に全てを告白してくれるのを待っていた」と言うが、特に指輪を奪われてからのイレーネにとっては1分1秒が針のムシロで、その苦しみを見ながら黙って告白を待ち続けていたというのも解せない話である。しかもそれが全て子供たちのためだとは……。
どうもこの夫の態度は「女よ、自殺するほどに苦しんだのなら汝を赦してつかわそう」という静かな勝利宣言に見えてならない。イレーネもその寛大な赦しを喜んで受け入れており、この夫婦はある意味神と人間のような関係に満足しているわけである。ツヴァイクはこの夫婦の欺瞞を暴くためにそういう矛盾をわざと書いているのではないかとも読めるが、それは穿ち過ぎか?

と言うわけで、この小説においてイレーネの不安についてはとてもよく書けているのだが、最後は甘い終わりであった。ただこれをイレーネの死と再生として見ると、新しい価値観を手に入れたイレーネが再出発の機会を与えられてめでたしめでたしとくくれるわけでもあるが。

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原題: Angst
著者: Stefan Zweig (シュテファン・ツヴァイク)
出版年: 1912
日本語版
翻訳者: 不明
出版社: みすず書房(シュテファン・ツヴァイク全集)

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