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ナンナル・モーツアルト

ヴォルフガング=アマデウス・モーツアルトの5歳年上の姉であるアンナ=マリア・モーツアルト(愛称ナンナル)に焦点を当てた伝記。しかしこれは単に「ある天才の姉」の一生を追った作品ではない。弟のヴォルフガングと同じくらい音楽的才能に恵まれながらも、それを真に開花させる機会を得ずに亡くなった彼女の生涯を、彼女が生きた18世紀・19世紀の時代背景及び思想を丹念に追いつつ、ヨーロッパ啓蒙期の女性の典型的な生き方として描き出しているのだ。

1751年にザルツブルクで生まれたナンナルは、弟のヴォルフガングと共に父の音楽英才教育を受けて育つ。特に子供時代はヨーロッパ各地を回って、あちこちの宮廷や音楽会で姉弟出演を果たし、賞賛や喝采を彼女も弟と一緒に受けていたのである。(現在でも、ウィーンだけでなくオーストリアやドイツのあちこちに「ここで昔、当時幼かった[ヴォルフガング・]モーツアルトがコンサートを開いた」という石碑などを見かけるが、その時はナンナルも一緒だったはずなのである。しかし彼女についてはすっかり忘れられてしまっている。)

だが長ずるにつれ、(元々それほど大きくもなかった)父親の彼女に対する関心はどんどん薄れていく。「神童」時代を終え思春期に入った彼女に、これ以上の音楽修行は必要ないと見なされてしまうのだ。(当時の女性が音楽家になることは非常に稀で、上流階級に属していたモーツアルト家の娘が音楽家になることなど、父親のレオポルドにとっては考えられないことであったのだ。)そういった父親の態度は、ナンナルとヴォルフガングの受けた音楽教育の違いにも表れている。ヴォルフガングがピアノやバイオリンをはじめとする楽器全般及び作曲について学んだのに対し、ナンナルはピアノを中心に歌と作曲について多少習っただけである。後年ヴォルフガングはナンナルに「(スジがいいようだから)もっと作曲を続けるように」と書き送っているが、父親が彼女の作曲活動に何の関心も示さなかったために、彼女は作曲を諦めてしまった。ピアノ演奏については、ヴォルフガング自身が自分より姉のほうが上手いと書いているので、ナンナルの腕前は相当のものだったのだろう。だが音楽家になる道を閉ざされていた彼女に許されていたのは、素人音楽会でのピアノ演奏及び上流階級の婦女子にピアノを教えることだけである。
家庭の事情から長らく結婚できなかったナンナルは34歳にしてようやくある5人の子持ちの官吏の元に嫁ぐ。そして主婦として十数年過ごし、夫亡き後は寡婦としてひっそりと暮らしながら1829年にその生涯を終えるのだ。

しかし著者のリーガーはこの伝記を彼女の死で終わらせない。ナンナルの生涯を描き終えた14章以降、リーガーは18世紀・19世紀の女性を巡る社会状況を多面的に解説していくことに紙面を割くのだ。それが教育観から劇や文学に描かれる典型的女性像、上流階級の女性のあるべき姿、職業音楽家としての女性の可能性まで多岐に渡っており、ナンナルをはじめとする当時の女性たちの(精神的にも物理的にも)身動きならない不自由な生き方をより深く理解するための手がかりとなっている。
例えば、初めて「子供が子供であることを発見した」(それまでの子供は単に大人のミニ版と見なされていた)として児童教育学の始祖のような扱われ方をしているルソーだが、リーガーは彼の教育論が男子にだけ適用されるものであったことを指摘する。そして当時の啓蒙教育論に通じていたレオポルド・モーツアルトもまたルソーの影響を大きく受け、息子のヴォルフガングには全般的な高等教育をほどこすが、娘のナンナルにはそこそこの教育を受けさせるだけで十分とし、あとは家事一般を身につけることに精を出すべしと考えるのだ。またそのルソーの「男性を性的誘惑から守るには、女性自身が性的魅力を最大限に制限すべきだ」という考えも当時の社会に広く受け入れられたために、女性の活動領域は精神的にも物理的にもどんどん狭められていった。そのため、女性が足を(ガニマタに)広げて立った姿勢でのバイオリン演奏をしたり、足を露わにせざるを得ないパイプオルガン演奏を禁ずるような風潮を生んでいくのだ。

女性史及び音楽史の研究家としてのリーガーはしかし、受け身の姿勢で生き続け、自らの才能を開花させ得なかったナンナルを責めているわけではない。むしろ、そのような制限の多い生活の中で彼女が果たした業績を再検討し、これまで男性(ヴォルフガング・)モーツアルト研究家に不当に貶められてきた彼女の姿を女性の立場から新しく見つめ直し、積極的な評価を下しているのだ。
一女性史としても、モーツアルト本としても非常に興味深い本である。

リーガーは最近、ミンナ・ワーグナーについても本を出版したので(『ミンナとリヒャルト・ワーグナー』)、近々そちらも是非読んでみたい。ワーグナーといえば2人目の夫人、コジマ・ワーグナーばかりが注目されているが、これまでワーグナー研究家からほとんど無視されてきたミンナ・ワーグナーが夫の業績にどれほど尽力したのか、新しい光を投げかけている作品であるようだ。
[2004/06/24 初 ‖ 2004/07/25 改]

原題: Nannerl Mozart
著者: Eva Rieger (リーガー)
出版年: 1990

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(C) Hana 2004 ウィーン今昔物語