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ねじまき鳥クロニクル と 村上春樹、河合隼雄に会いにいく

村上春樹の本はこれまで『ノルウェーの森』と『スプートニクの恋人』しか読んだことがなかったのだが、友人に本書を貰ったので読んでみた次第。ついでに数年前に母が送ってくれた『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』も読み返してみた。こちらは、ちょうどねじまき鳥の三部が出版された後に行われた両者の対談が収録された本で、『ねじまき鳥クロニクル』について何度か触れられているので、本の理解を深めるのに役立つかなと思って読んでみたわけである。でもあんまり役に立たなかった。

対談の中で、本を書きながら無意識の中に潜っていくことが井戸に入る、或いは壁を抜けるという比喩でもって何度か語られるのだが、何となくわかるような。芸術というものは、絵にせよ文にせよ、すべからく根っこのほうで無意識に繋がっていて、その無意識を個々人がそれぞれの形で表すことなのだと思う。そういう意味で、村上春樹が「自分で自分の書いた作品をスッパリ解釈できない」「何となく自分の中から出てきたものを書いた」というようなことを何度が述べているが、それはそれで尤もなことなのだろう。

『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は、妻のクミコと猫のワタヤ・ノボルと3人(?)で平穏に暮らしている岡田トオルである。クミコとトオル夫婦は一見幸せそうな家庭生活を送っているように見えるのだが、ある日ワタヤ・ノボルが失踪したことから少しずつ何かが狂っていく。ワタヤ・ノボルの後にはクミコが何の書置きもなく忽然と蒸発してしまうのだ。呆然としながらも、クミコを見つけ出そうとするトオルは、その過程で様々な人と出会う。その出会いの多くがクミコ発見には何の役にも立たないようで、トオルは円の周囲をただグルグルと歩き続けるような無駄な捜索活動を続ける。しかしそれでも螺旋を描くようにしてトオルは少しずつ円の中心地に近づいていく。一体クミコはどこへ行ってしまったのか?そしてトオルはクミコを取り戻すことができるのか?

この本の中では様々なエピソードが語られ、それがコラージュのように、はたまたパッチワークのように組み合わされている。また全ての話が終わりまで語り尽くされているわけではないので、それが不満な人もいるだろう。しかし私は以前もっとずっとひどいブツ切り継ぎ接ぎ物語を読んだことがあったので(『吟遊詩人ベアトリッツ』)、このスタイル及び構成には特に違和感を覚えなかった。
ただこの物語には、個々のエピソードがどうやって繋がるのか、過去と現在の関係は何なのか……等々の論理的な解釈では汲みきれない「語りかけ力(これ、私の造語)」が溢れているような気がした。読者の一人一人が好きなところに焦点を置いた自分勝手な解釈ができて、そのどれもが正しくて間違っているような感じ。

私にとって、この物語の一番大きな主題は「夫婦」である。ある日突然2人の絆がブツッと音をたててちぎれ、その時から2人がお互いを再び見つけ出すまでの冒険物語。多分ここまでドラマチックで抽象的な話でなくても、もっとずっとスケールの小さい形で、様々な夫婦やカップルがお互いを見失ったり、見失いかけたり、相手の姿を捜し求めたりしている最中なのだと思う。そのひとつのケースがトオルとクミコの別れであり探索であり、再会なのだ、きっと。
この物語で、トオルは最後クミコとの共通の敵に大打撃を負わせるが、致命傷を与えるまでには至らない。そして自身も疲労困憊して死にかける。だがトオルの役目はここで終わりなのだ。その後はトオルから引き上げられたクミコが始末をつける。それが彼女の役目であり、過去との訣別であり、再生への第一歩でもあるのだ。こんな風に共通の敵と戦いながら夫婦の絆は深まっていくんでないかとも思ったり。この現実生活で、敵は化け物なんかではなく、大抵はちょっとした互いの欠点であったり、意見の違いであったり、同じ社宅内の奥さんだったり、上司だったり、住宅ローンだったりするのだろうが。
そういう意味で、村上春樹自身何らかの形で自分の妻と共に厚い厚い壁を苦しみながら抜けた経験があるんじゃないかという気がしたが、それについては彼自身何も語っていないのでよくわからない。(河合隼雄は「これは夫婦のすごい話ですね」みたいなことを対談で言っているが、あまり突っ込んではいない。)

またトオルの敵は、敵であるのと同時に彼自身の正反対の姿、つまり影でもあると思う。自分自身の影を追い詰めて征服するというモチーフもこの物語は内包しているのだ(きっと)。ル=グウィンの『ゲド戦記』1巻も同様のモチーフを扱っているように思うが、いかがなものか。『指輪物語』のフロドとゴクリの関係もそれと似ているかもしれない。
だからこそ、その敵を殺そうとすれば自身にはね返ってくるダメージも甚大で、トオルは死にかけてしまう。また自分の影を自分で抹殺することはできないのだ。(上記のゲド然り、フロド然り、影を除くのに直接手を下してはいない。ゲドは影を自分の半身として受け入れ、ゴクリはフロドの中指もろとも火口に落ちて行く。)そうして最後の最後の詰めはクミコの手に委ねられる。
象徴的に見ると、それまで死んでいたクミコはそこでやっと生き返り、トオルは一度死ぬ(=丸2日間こんこんと眠り続ける)。その死を遠く離れた地で感じ取った笠原メイは、月の光の中でトオルの死を悼む。そしてトオルは頬のアザの喪失と同時に再生するのだ。

それから気になったのが名前である。
命名の儀式(?)がところどころで重要な役を果たしている。加納クレタは綿谷ノボル(クミコの兄)に体を汚された後本名を捨てて加納クレタと名乗り、その後井戸の底で新しい自分を見つけると、加納クレタの名を捨ててしまう。失踪した猫のワタヤ・ノボルはある日いきなりまた家に戻って来て、トオルから「サワラ」という名を授けられる。トオルは笠原メイに出会い、そこで彼女に請われるまま「ねじまき鳥」という新名を自分につける。
それとは逆に、物語の初めから変な電話をかけてきてトオルを悩ませる正体不明の女には名前がない。しかしその女の名前を見つけ出すことで、トオルは自分も彼女をも苦境から救い出すのだ。
また物語の中で重要な役を演じる数人の名前はなぜか仮名である(加納マルタ・クレタ、ナツメグ、シナモン)。これらの人物はみんな多少なりともあちらの世界に足を突っ込んだ仕事をしているので、真名(=まことの名)を明かすことを嫌っているのかなとも思ったがよくわからない。(誰かに自分の本当の名を知られてしまうと、その人物に操られるようになってしまうという考え方は世界中のあちこちにある。)

ノモンハンの話はどう解釈したらいいものか、全然わからない。でも間宮中尉の語る皮剥ぎの話は強烈で、クラクラした。その後生きた屍のようになって淡々と生き続ける間宮中尉は本当に新しい名前を見つけた加納クレタに出会えたのだろうか?トオルに過去の出来事を語ったことで、間宮中尉も少しは救われたのだろうか?だから元加納クレタに出会えたのだろうか?そう願いたいところだが。
どこかで村上春樹が、ノモンハンは彼の父が居たところで、その過去を何とか消化するためにも、当時の様子を文章にしてみたと読んだ覚えがある。何か業が深い話だなとその時に思ったのだが、村上春樹自身、この話を書くことでどこかしら癒されたのではないかとも感じたり。

思いつくままに感想を書いていたら、何だか随分長くなってしまった。
だがこの物語は、今の私が今の状況で読んでこういう感想を抱いたが、いつか別の時に読んだらまた全く違う印象を受けるのかもしれないとも思う。それはそれで楽しみな気がするので、しばらくしたらまた読んでみるつもりである。
[2004/03/07初 ‖ 2004/03/29 改]

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原題: ねじまき鳥クロニクル
著者: 村上 春樹
出版年: 1994(一部・二部)、1995(三部)

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