ウィーンの歴史 ┃ ウィーンの名所・旧跡 ┃ 書評

HOME > ウィーンあれこれ今物語 > オモフマ柱

オモフマ柱

オモフマ柱 タイトルは「オモフマちゅう」と読む。「オモフマばしら」ではない。これは10月10日の早朝ウィーンオペラ座脇、ヘルベルト・カラヤン広場にいきなり出現した黒い石柱の名である(右の写真参照のこと)。

オモフマとは、1999年の5月1日に、オーストリアから故郷のナイジェリアに強制送還される途中の旅客機内で暴れ出したために座席に縛り付けられ、口にガムテープを張られた結果心臓発作を起こして亡くなった黒人男性の名前である。この事件が巻き起こした反響は大きく、事件の直後はオモフマ氏を悼むデモが相次ぎ、町中のあちこちで銅像の口にガムテープが貼られた。ベートーベンもゲーテもハイドンも一時は口なしであったのである。また、警察を管轄していた内務省のトップ、元内務大臣が3人も裁判所に召喚されて証言をしたり、この事件は当時かなりの大問題として扱われた。
同時に一介の不法滞在者であった故オモフマ氏には、特にリベラル派の間において、国家権力による不当な暴力によって命を落とした無垢な犠牲者、さらに後には殉教者的ステータスが付与され、一時は権力機構に対する旗印そのものであった。しかし時と共にそんなカルト的効果も薄れ、もはやオモフマという名前は人々の頭から消え去ろうとしていた。
オモフマ氏の死から3年半が経とうとしていたそんなある秋の日の早朝、コトは起こったのである。

守護者 このオモフマ氏の死を悼むため、彫刻家のウルリケ・トルーガーは、わざわざアフリカ産の黒い御影石でもって高さ3m、重さ5トンという容量の前衛芸術的柱を創作し、10月10日の早朝5時頃オペラ座の横にドカンと立てさせたのだ。勿論ナントカ法に基づく許可など取っていない。ちなみに、トルーガ―はこの柱でもって「縛り上げられた人間の苦しみと狂乱」を表現し、「金持ち世界の入り口であるあの場所に柱を立てたことで新たな問題提起をし」ているのだそうだ。(こういう時に前衛芸術は好き勝手な解釈及び意味付けができておトクである。)

守護者(後ろから) これで大弱りなのがウィーン市。あちこちの官庁でこの問題をたらい回しにした挙句、「片付けるのが大変だからこのまま柱を立てっぱなしでいい許可をあげちゃおうか」などと話し合っているらしいが結論は棚上げ。
この柱の重さに耐え兼ねて、オペラ座地下駐車場の天井が破れるかもとか、何の支柱もない柱が突然倒れたら大変とか色々心配はあるらしいのだが、当の自称芸術家にとってもウィーン市にとってもそういう問題は二の次三の次らしい。しかもこのトルーガ―という人は2000年の1月1日にもブルク劇場の前に「守護者 (Wächterin) 」というタイトルの自作彫刻を無許可で立てて、そのままになっているそうだ。……色々もったいぶった理由はあるらしいが、この一連の行動はある無名彫刻家がウィーン市のいい加減ぶりにつけこんで行っている単なる売名行為のようにも見える。というか、私にはそうとしか見えない。
そんなにオモフマ氏の死が気にかかるなら自作の芸術柱を高く売り、その金をオモフマ氏の遺族に贈るとか、難民救済活動グループに寄付するとかしたほうが余程生産的ではないのだろうか?

結局ウィーン市がこの柱を別の場所に移動させることで事の決着はつきそうな様子だが、このトルーガーという人、そのうちまた同じことをしそうである。

参考:
Von der Oper zum Museumsquartier? / 2003.10.25./ Presse
Marcus Omofuma Gedenkstein / 2003.10.16./ 反人種差別団体のサイトの記事
“Bauverhandlung” in drei Wochen / 2003.10.14./Presse
Wirbel um Granit-Klotz vor der Oper / 2003.10.11./ Presse
“Marcus Omofuma Stein” neben Staatsoper / 2003.10.10./ Kleine Zeitung



BACKHOME > ウィーンあれこれ今物語 > オモフマ柱 ‖ NEXT
────────────────
(C) Hana 2003