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ニッキー・ラウダ (Niki Lauda)

(日本語では「ニキ・ラウダ」と表記されているが、ドイツ語だと「ニッキー」なので、ここではドイツ語風の発音に倣った。)

1949年にウィーンの裕福な家庭にアンドレアス・ニコラウス・ラウダとして生まれたニッキー・ラウダは、幼い頃から車に興味を持ち、18歳になるとレーサーとして様々な競技に参加するようになる。(しかし家族はニッキー・ラウダの夢に大反対したため、彼は銀行から借金を重ねてレースの資金調達をした。)そして順調にキャリアを積んでいったラウダは1974年にフェラーリのレーサーとしてF1入りし、早くもその翌年の1975年には初優勝という成果をおさめる。さらに1976年には長年の恋人であったマレーネ・クナウスと結婚し、幸せの絶頂にあったラウダだが突然の不幸に襲われる。
1976年8月1日、F1ニュルンベルクグランプリの最中にニッキー・ラウダの乗っていた車が大クラッシュして火を吹き、彼は瀕死の重傷を負ってしまうのだ。(この時の傷跡はニッキー・ラウダの顔に今でもありありと残っているし、多分そのせいだろう、彼は常に野球帽をかぶって決して脱がない。)これでニッキー・ラウダのレーサーキャリアは終わったと誰もが思ったが、彼は早くも1ヶ月後にはレースに復帰しその年は4位に入賞、翌年の1977年には2度目の優勝という快挙を成し遂げる。
これで満足したのか、ニッキー・ラウダはF1の世界から引退することを決心し、自ら設立した航空会社ラウダ・エアーの事業に専念する。しかし当時市場を独占していたオーストリア航空との競争に敗れ、1982年には再びF1の世界に今度はポルシェのレーサーとして(多分資金調達のために)戻って来、1985年に3度目の優勝杯を手にする。だが1986年のシーズン終了後には又もやF1からの引退を宣言し、もう一度航空会社の事業に挑戦する。今度はそれが成功し、ラウダ航空は小さいながらも航空自由化の波にも乗って着実に地歩を固めていった。
2000年になるとニッキー・ラウダはラウダ航空の経営から退き、F1ジャガーチームのコーチの役に就く。これはぱっとしないまま2002年に契約が切れてしまったが、最近また新しい事業を始めたらしい。車体全体にスポンサーのロゴが書いてあるスマートを1日たったの1ユーロでスマートを貸し出すというサービスを始めてウィーン人の耳目を集めているニッキー・ラウダである。

……なんだか面白そうな人だなと思って色々調べてみたのだが、それほど面白いわけでもなかった。わりに色々してきたにしては、よくも悪くも「普通のおじさん」ぽい人で、アクがないのである。通算9年しかF1レーサーをしていないのに、3度も優勝するとはかなりスゴイことではないかとも思うのだが、どうもキャリアだけを眺めているとあまり執念のようなものが感じられない。もしかしたら、才能に恵まれ過ぎて努力するのがイヤになった口か?そういう意味では多少残念である。
数年前まではF1にやはりオーストリア人ドライバーのアレクサンダー・ヴルツがいて大層期待されていたが、全くといっていいほど成果を上げずにF1から消えてしまった。今はF1のテストパイロットとして働いているとかいないとかいう話である。ニッキー・ラウダ以降大物F1ドライバーがオーストリアから出てこないこともあって、未だにラウダ人気が衰えないのだろう。

とにかくニッキー・ラウダは、F1レーサーとしても実業家としてもオーストリアが世界に誇る人物なのである。しかし日本ではF1ファンかラウダ航空ファンの間でしかその存在が知られておらず、その有名度のギャップがオーストリア人には意外だったりするようだ。



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(C) Hana 2003