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王宮 (Hofburg)

ヨーロッパにおいても最大の規模を誇るウィーンの王宮の歴史は13世紀にまで遡る。この王宮はハプスブルク家の居城として有名であるが、当初はバーベンベルク家の新しい居城として13世紀に建設された。(それ以前の王宮については旧王宮参照。)その後14世紀にハプスブルク家がウィーンの領主となってからもこの王宮は居城としての役割を果たし続ける。近代に入ってからはさらにヨーロッパの政治の中心舞台ともなり、多くの皇帝や著名な政治家たちによってここで政が執り行われた。
まずは王宮の成立から見てみることにしよう。

王宮の基礎はバーベンベルク家のマルガレーテと結婚したモラヴィア辺境伯のオットカール二世により1275年に建設が開始された。この基礎部分は現在のスイス宮あたりに位置していた。王宮の工事はオットカール二世がウィーンを追放された後にハプスブルク家のルドルフ一世に引き継がれ、1278年に完成する。だがこれ以後も王宮は20世紀に至るまで拡張され続け、現在では様々な時代に建設された美しい建物群が王宮の全体像を形作っている。
現在王宮内に残っている最古の建物はスイス宮である。これはフェルディナンド一世が1553年に主な省庁をプラハからウィーンに移した際にルネッサンス様式で建設された。当時の王宮そのままでは小さ過ぎ、拡張工事の必要があったためである。その後1558年にはスイス宮の北側に厩(うまや)宮が、1575年には西側にアマリア宮が建てられる。当時スイス宮とアマリア宮の間の城の中庭ではマキシミリアン2世によって競馬が催されていたという。さらに1612年に主都がプラハからウィーンに移されるとウィーンは帝都としてさらに発展していく。そして17世紀後半、最初のバロック皇帝レオポルド一世の時代にはスイス宮とアマリア宮をつなぐ形でレオポルド宮が建てられる。これ以後バロック時代の皇帝たちは王宮の建物群が一つの統一した形にまとまるように増築工事を繰り返すが、20世紀に入るまでこれが完成にまで至ることはついになかった。
フォルクス庭園のエリザベート像 18世紀前半カール六世はさらに宮廷図書館宰相宮を建設し、さらには冬季乗馬学校を設立する。これらの増築により厩宮と王宮が直接つながっただけでなく、東へとさらに王宮が広がったため王宮とアウグスティーナー教会も直結する。19世紀後半から20世紀にかけ、フランツ・ヨーゼフ一世の代に最後の拡張工事が行われ宰相宮の北側にミヒャエル宮が、ヘルデン広場には新王宮が、そしてリンクを隔てて向こう側には二つの有名な王宮博物館、美術史博物館と自然史博物館が建てられた。

この王宮の敷地内とその周辺には6つの大きな記念像が立てられている。まず北東部分のヨーゼフ広場にある騎馬像がヨーゼフ二世で、スイス宮の向かい側の宰相宮、アマリア宮、レオポルド宮に囲まれた城内広場 (In der Burg) には皇帝フランツ二世(一世)の立像が安置されている。さらにヘルデン広場に向かい合って立つ二体の騎馬像はカール大公とオイゲン公の像である。(このオイゲン公は王族以外の血筋で初めて王宮内の敷地に銅像が立てられた名誉ある軍人である。)リンクを隔てた二つの博物館の真中にはマリア・テレジアの像が、アルベルティーナー広場にはアルブレヒト大公の像が立っている。その他ブルク公園にはフランツ・ヨーゼフの、フォルクス庭園には悲劇の皇后エリザベートとオーストリアの有名な劇作家グリルパルツァーの像も立てられている。このエリザベート像は1907年に完成し、現在の場所に立てられた。像の裏側には献詞として『変わらぬ愛と忠誠の元、オーストリア人民は忘れ難き皇后エリザベートを偲んでこの記念碑を立てた』と書いてある。

以下に述べる各宮殿についての記述はそれぞれ建設された年代が古い順に並べてある。


オイゲン公騎馬像

スイス宮
王宮礼拝堂
アマリア宮・レオポルド宮
厩宮と冬季乗馬学校
宮廷図書館
ヨーゼフ広場
宰相宮とミヒャエル宮
新王宮
ヘルデン広場と城門


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