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ヘルデン広場 (Heldenplatz) と城門 (Burgtor)

この広場は元々『城の外側広場』という名で呼ばれており、王宮の外側の稜堡とレオポルド宮の正面にあった砦の間に位置していた。だがナポレオン戦争の後1809年、ウィーンから退却するフランス軍が置き土産にと1660年に建てられた外門(現在のブルク門)とこの砦を爆破して行ってしまった。これによってヘルデン広場は現在の大きさに広がる。
この広場の名前ヘルデンとはドイツ語で英雄たちを意味するが、これは1809年アスペルン(Aspern;ウィーン22区のドナウ岸辺の場所)でフランス軍に対し勇敢に戦ったオーストリア兵たちに因んでつけられたものである。

カール大公騎馬像 広場中央には真中の道を隔てて二体の騎馬像が立っている。これは東側の騎馬像がオイゲン公、西側のものがカール大公である。カール大公は上述のアスペルンの戦いで戦死したのだが、その英雄を偲ぶために皇帝フランツ=ヨーゼフが自らのポケットマネーでこの騎馬像を製作させた。像の制作に携わったのは彫刻家のフェルンコーン (Fernkorn) で、彼は死地に赴く大公のダイナミックな動きの一瞬を巧みに捉え、人馬一体の躍動感溢れる像を作り上げた。この巨大な騎馬像は馬の2本の後ろ足だけで支えられており、そのバランスの絶妙さは今日でも高く評価されている。しかしなぜか当時の評判は散々で、1860年に除幕されたフェルンコーンのカール大公像はかなり貶された。
その後もフェルンコーンはオイゲン公騎馬像の設計を委託される。そこでまたカール大公像と同じく躍動感に富んだデザインがなされたそうだが、それはオイゲン公が生涯に渡ってカール大公ほど危機迫る経験をしたことがないという理由で拒否されてしまった。そのため妥協案として現在のオイゲン公騎馬像がデザインされることとなった。従ってオイゲン公像がカール大公像にバランスの面からも躍動感の面からも劣るのはフェルンコーンの責任ではないようだ。

新王宮の西側、リンクとヘルデン広場の境に立つ城門は1821年から1824年にかけてフランツ二世(一世)の命により建設された。当時この門は1813年のライプツィッヒでの諸国民戦争 (Voelkerschlacht) の記念碑として建てられた。また、この門の内側に彫られているラテン語の文句≪Justita regnorum fundamentum≫は皇帝フランツ一世の『立法は帝国の礎である』という意味のモットーである。さらにリンク側の正面上部には『オーストリア皇帝フランツ一世』とも彫られている。1933年から34年にかけては第一次世界大戦で亡くなった犠牲者の名誉を称える記念碑も兼ねるようにと改修工事が行われ、現在この門はさらに第二次世界大戦中オーストリア抵抗運動のために亡くなった人々の記念碑も兼ねている。
数えてみると、この門のドリス式柱の間には全部で五つの門がある。そのうち真中の門は長い間皇帝専用の門とされ、1960年代にようやく新しい交通法が制定されるまでほとんど開けられることがなかった。


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