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厩(うまや)宮 (Stallburg)

この宮殿はスペインからウィーンにやって来たマキシミリアン大公(後の [1564−1576] 皇帝)のために1558年に建てられた。マキシミリアン大公がこの宮殿へ入居した際、随人に伴って当時のウィーン市民にとっては未知の動物であった象までが連れて来られたと言う。この時グラーベンの雑踏の中で一人の赤ん坊が母親の手から像の足元に滑り落ちてしまった。しかし象は慌てず騒がずその長い鼻で赤ん坊をつまみ上げ、驚き震える母親の腕の中へと子供を返してやったという。
建物の地味な外観からはあまり想像できないが、この宮殿はウィーンでも指折りのルネッサンス建築の一つである。後世この宮殿は代々の皇帝の芸術コレクションの保管場所としても用いられた。宮殿の最上階には1721年から1778年まで皇帝専用の画廊があったが、後にはベルヴェデーレ宮殿へと移された。かつて宮廷薬局があったミヒャエル広場に面した宮殿の北側部分は現在リピッツァ産の馬(スロヴェニアとイタリアの国境近くにある海港都市トリエステ郊外の村)の歴史について知ることのできるリピッツァ馬博物館 (Lipizzaner Museum) となっている。その隣、宮殿の東部分は現在リピッツァ馬の厩として使用されている。


冬季乗馬学校 (Winterreitschule)

スペイン乗馬学校内部 この建物の中にあるのが世界的に有名なスペイン乗馬学校である。この学校は1572年にマキシミリアン二世によって設立された。さらにこれを機に有名なスペイン種の馬の繁殖がハプスブルク家の領地内でも開始されることになる。そこでやはり馬に大きな関心を持っていたマキシミリアン二世の兄弟、大公カール二世によって1580年リピッツァに種馬牧場が作られた。これがスペイン乗馬学校の『スペイン』の名前の由来であり、リピッツァ種の馬の起源である。このリピッツァ種の馬は元々様々な色の毛並みを持っていたが、後には白い馬だけが繁殖に用いられるようになり現在に至る。

さらにカール六世の治世にはスペイン式の乗馬術が取り入れられ、王宮内にバロック室内乗馬学校が作られる。それが1729年から1735年にかけてフィッシャー・フォン・エアラッハ(息子)の設計に基づいて建設された今日の冬季乗馬学校である。華麗な乗馬技術が披露される白を基調とした広間は36本の柱で支えられた回廊と神殿のような作りの桟敷席とに囲まれている。だがこの広間は乗馬の実演を披露するためだけに作られたわけではなく、政治的な会議や騎馬戦などのトーナメント、回転木馬(17世紀頃から回転木馬は貴族たちの娯楽であった。この回転木馬とは、現在我々が遊園地で目にするような乗り物ではなく、生きた馬によって回される乗り物であったのだろう)、舞踏会やオーケストラの演奏会などにも用いられることの可能な多機能的な広間であった。事実ここでは1848年の3月革命の際ウィーン人民集会が開かれたこともある。
第一時世界大戦後、ハプスブルク家の解体に伴い、スペイン乗馬学校も廃校の危機に陥る。だが熱意ある人々の運動によって学校は廃校の危機を免れる。スペイン乗馬学校の二度目の危機は第二次世界大戦終了前夜のことであった。空襲により、馬たちの生命の危険が迫ってきたため当時の学校の責任者アロイス・ポドハスキー陸軍大佐(Oberst Alois Podhajsky) は学校をオーバーエステライッヒ州に疎開させる。そして戦後も学校はそのままオーバーエステライッヒ州に残り、ようやく1955年に再び王宮の冬季乗馬学校内に戻って来たのである。
スペイン乗馬学校のHPはこちら(英・独)。


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