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シュテファン寺院 (Stephanskirche)

ウィーンの象徴とも言えるシュテファン寺院はバーベンベルク家がウィーンを治めていた12世紀前半に建築が開始されたと言われている。(最近のシュテファン寺院の発掘調査では9世紀頃に建築が開始された証拠も見つかったそうであるが、詳細がまだ公表されていない。そのため私は従来の定説に従ってこのページを書くことにするが、新しい情報が手に入り次第、訂正をしていくつもりである。また、バーベンベルク家についてはこちらのページを参照。)
ウィーン人から『シュテッフル (Steffl)』と呼ばれ(正確にはこのシュテッフルという愛称はシュテファン寺院の南塔を指しているが)、親しまれているシュテファン寺院はまたオーストリアにおける代表的後期ゴシック様式の建物であり、ヨーロッパ中でも最も有名な寺院の一つに数えられている。まずはその歴史から見ていってみよう。


シュテファン寺院の成立
シュテファン寺院の四基の塔
 1. 巨人門と異教塔
 2. 北塔と南塔


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シュテファン寺院の成立

グラーベンから見たシュテファン寺院 1135年にレオポルド四世がクロースターノイブルクからウィーンへと遷都をしたすぐ後1137年、パッサウの司教とレオポルド四世の間にマウテルンの交換条約(Mautern;マウテルンはウィーンの西に位置するドナウ側沿いの町で、ドナウ川をはさんでクレムスのほぼ向かいにある)が交わされた。この交換条約の中でレオポルド四世は元々はパッサウ司教区に属し、後にバーベンベルク家の所有となっていたペーター教会を返還し、その見返りとして教区所有地であったマウテルンから現在のウィーン四区に至るまでの土地とウィーンの壁のすぐ外側にあった教区教会建設予定地を手に入れた。同じ1137年、その場所に教会の建設が開始され、1160年に一旦完成したのがシュテファン寺院である。(この場所には元々ローマ時代に寺院が立っており、周囲にはヴィンドボナ住民のための墓所が広がっていたという。)
当時シュテファン寺院はロマネスク様式で建てられたが、この時代の寺院の名残は現在残念ながら残っていない。次に1230年、1240年頃から1263年にかけて2番目のシュテファン寺院が建てられた。この寺院はドイツ語圏において一番最後に建設されたロマネスク様式の教会であったと言われている。この時期に建てられた教会は現在、西側の入り口巨人門 (Riesentor) を含む正面玄関とその両側に立つ異教塔 (Heidentuerme)、そして西側玄関の内側のパイプオルガンが位置する二階席に残っているのみである。
今日我々がウィーンで目にするゴシック様式のシュテファン寺院は1304年から1523年にかけて建設された。この建築作業はいくらか珍しい形で行われた。と言うのも、以前の教会の一部を新しい教会に統合しつつ建築中にも教会内で礼拝が可能であるよう古い教会を覆うようにして建築作業が進められたためである。

まず1304年から1340年にかけてロマネスク様式の旧内陣の代わりに、アルブレヒト一世に因んで名付けられた現在のアルブレヒト内陣が作られる。その後ルドルフ四世の元、1359年から長堂の建設が開始され、1440年に完成する。長堂完成の後には1446年より長堂の天井を丸天井にする作業が下述する伝説の主人公であるプクスバウム (Puchsbaum) によって始められ、巨大な丸天井が完成したがこれは1945年に焼失してしまう。(現在のシュテファン寺院の丸天井は第二次世界大戦後、何千万円もの寄付を募って修復されたものである。また1945年当時、天井がぬけて瓦礫だらけのシュテファン寺院の写真がシュテファン広場の3番地の建物 (Churhaus) の壁にかけてある。それを見るとシュテファン寺院が戦争によってどれほど破壊されてしまったのかよくわかる。)長堂の建設開始と同時に教会南塔の建設もルドルフ四世の命のもと着工され、1433年に完成した。南塔の反対側に立つ北塔は1450年に基礎工事が始められ、教会の主な工事が終了した後1467年に本格的な建設が開始される。南塔と北塔を見比べると、北塔の方は南塔(148m)の半分ほどの高さ(68m)しかない。元々はどちらの塔も同じ高さになる予定であったらしいが、北塔の工事は1511年に完成を待たずして中止されてしまった。(工事が中止された原因は経済的な理由であるという説と、塔そのものが工事中止の時点で既に十分に完成されており、これ以上工事をする必要がなかったという美的な理由であるという説がある。)とは言え北塔は高さこそ南塔に劣るものの、南塔よりもずっと細かく美しい装飾がほどこされている。


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シュテファン寺院の四基の塔

1. 巨人門と異教塔
異教搭アップ まずは寺院西側正面部分から見てみることにしよう。これは上述した通り元々は13世紀に後期ロマネスク様式で建設されたバジリカの正面であったが、後の拡張工事の際左右の異教塔と共に新しい教会に組み込まれた。この部分の中心には巨人門(ハプスブルク門とも言う)と呼ばれる入り口が口を開いているが、この巨人門 (Riesentor) という名前の由来はなかなか面白い。北塔建設時(1443年)にここでマンモスの大腿骨が発見されたのだが、当時の人々はこの骨を巨人の骨だと信じ込み、そこからこの巨人門の名がつけられたと言う。(ドイツ語で巨人は "Riese"、門は "Tor"。)その骨は長い間シュテファン寺院にあったが、現在はウィーン大学の地質学科に保管されている。またこの入り口には昔落とし戸 (Falltuer) があったことがあり、『落とし戸』を意味する "rise" から "Riesentor" の名がつけられたとも、西に太陽が沈むことから中世ドイツ語で沈む、落ちる等を意味する "risen" から "Riesentor" の名がつけられたという説もある。
巨人門の左右に立つ高さ65mの塔はシュテファン寺院建設を開始したハインリッヒ二世に因んで元々は『ハインリッヒの塔』と呼ばれていた。ところが1450年頃ローマ教皇の大使としてウィーンに来たシルヴィオ・ピッコロミニ (Silvio Piccolomini、後の教皇ピウスニ世)がこの塔をイスラム教の祈りの塔(ミナレット、あるいはミナレ)にたとえた。そのためそれ以来この塔は『異教塔』と言うキリスト教の教会には何とも不似合いな名前で呼ばれるようになってしまったのである。当時享楽の都であったウィーンはローマ教皇の大使の気に入らなかったのであろう、というのが『シュテファン寺院の秘密』を著したルドルフ・シュヴァルツ氏の意見である。
さて左右の塔を見比べてみると非常に似通っているが、よくよく見ると少しずつ違っている。例えば塔上部の窓の形や飾り屋根の形などである。片方は丸みを帯びた山形をしており、もう片方は角張っており階段のような形(凸)である。これは丸型の形が女性器を、角張った形が男性器を象徴し、合わせて多産や旺盛な繁殖への願いがこめてあるらしい。それだけでなく、1500年頃までは左の女塔の屋根のてっぺんにはには十字袈が、右の男塔の屋根には雄鶏が据え付けてあったという。雄鶏は男性のシンボルであると共にキリスト教徒にとっては朝一番に鳴くことから毎日の始まりを意味し、悪魔を追い払う力を持っているとも信じられていた。
また中世の教会では男女の席が分けられており、入り口までもが別々のものであった。だが当時の庶民は文盲であったため、女の入り口と男の入り口をわかりやすく示すために、それぞれの入り口がある塔に男と女の象徴を印したのが上述した塔の装飾の違いなのだそうである。(上記のルドルフ・シュヴァルツ氏の説。)因みに教会正面の巨人門は貴族と位の高い聖職者専用の入り口であった。


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2. 北塔と南塔

南搭 上述の通り、シュテファン寺院の南塔は建築家のプラハティッツ (Hans von Prachtitz) によって1433年に完成したが、プクスバウム (Hans Puchsbaum) によって建設された北塔はついに南塔と同じ高さにまで建てられることがないまま1511年に工事が中止されてしまった。これについても面白い伝説がある。
プラハティッツによる南塔建設がほぼ終わりに近づいていた時の話である。塔の工事現場監督のプクスバウムがプラハティッツの娘マリアとの結婚の許可を求めてきた。かねがねプクスバウムの技術に嫉妬の念を抱いていたプラハティッツは二人の結婚に一つの条件を出した。もしプクスバウムが南塔と同時期に北塔の建設を完成させることができたら、二人の結婚を許すというのである。だがそれはほとんど実行不可能な条件であった。絶望するプクスバウムの前に現れたのがこういった伝説には定番の悪魔で、南塔と同時期に北塔を完成させてくれると言う。だが北塔建設中にプクスバウムが一度でも神や聖人の名を唱えたならば、彼の魂は悪魔のものとなる。藁をも掴む気持ちでプクスバウムは契約書にサインし、北塔の建設は非常な早さで進んだ。ある日自分で北塔に登ってみたプクスバウムは塔の下を行き交う人々の中に自分の恋人のマリアを見つけ、思わず「マリア!!」と叫んでしまう。そこで悪魔はプクスバウムを塔から突き落とし、魂を地獄へと連れて行ってしまったそうである。

以上が北塔工事中止の理由を語っている伝説だが、工事中止の実際の理由はやはり財政難であったようである。その当時はトルコとの戦争だけでなく、不作や蝗害(こうがい;イナゴの害)が続き、寺院の建設どころではなかったらしい。それに加え、ルネッサンスが広まり始めた時期にゴシック様式の教会建築を続けることに意義が見出されなくなったこともその理由の一つに数えられている。さらに伝説の揚げ足を取ってみれば、プクスバウムは北塔の設計を担当したのみで、実際に北塔建設を指揮したのはシュぺニュンク (Spenyng) であった。
この北塔は鷲塔 (Adlerturm) とも、また北塔北側の入り口は鷲の門と呼ばれている。ここには第二次世界大戦後に鋳造された半径3.14m、高さ2.94m、重さ約2トンの大鐘プンマリン (Pummerin;オーストリア最大の鐘) がある。このプンマリンは一年に一度、大晦日の夜だけに鳴らされる。


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