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旧王宮 (Am Hof)

アム・ホフ広場 現在アム・ホフ(王宮)広場と呼ばれているこの場所にはその昔、バーベンベルク家のハインリッヒ二世によってショッテン教会と共に建設された王宮が建っていた。このハインリッヒ二世によりクロースターノイブルクからウィーンに遷都された後、、ウィーンはオーストリア領主の居城都市となり、アム・ホフ広場はそのウィーンの中心地となった。(右の写真は広場での蚤の市の様子。中央の柱が『マリアの柱』。左から2番目の建物が元『武器庫』で、一番右の建物が王宮広場教会。)
この王宮がバーベンベルク家の居城であった期間はしかしかなり短い。ハインリッヒ二世の後を継いだレオポルド五世が新しい王宮 (Hofburg) の造営を開始し、間もなく居城は新しい王宮に移されてしまうからである。だが新王宮が完成するまでこの王宮はレオポルド五世、レオポルド六世治下オーストリア宮廷文化の中心として、多くの著名な詩人や貴族たちで賑わっていた。

7番地、メルクラインハウス 新王宮完成の後にはここにクレムスにあった造幣工場が移って来る。その後ハプスブルク家のアルブレヒト三世はカルメル修道会にこの建物を下げ渡し、元の王宮は14世紀末から15世紀初頭にかけて建て直されて今度は教会(現在の王宮広場教会)として使用されるに至る。さらに16世紀半ば宗教改革によって空になってしまったこの教会(13番地)と修道院に(2番地)にイエズス会が入り、1773年に閉鎖された修道院に今度は軍事評議会が入る。1892年にはラデツキー記念碑も軍事評議会の建物の前に据えられるが、この軍事評議会とラデツキー記念碑は共に第一次世界大戦前にシュトゥーベンリンク (Stubenring) に国防省として移転してしまう。その後この由緒ある建物は取り壊され、現在は1915年に建設されたレンダー銀行 (Laenderbank) が建っている。

8番地、細い家 それではアム・ホフ広場全体を見てみよう。
まず広場西側7番地に位置するバロック様式の外観の建物が『メルクライン・ハウス (Das Maerkleinsche Haus) 』で、18世紀前半にヒルデブラント (Johann Lukas von Hildebrandt) によって設計され、クリストフ・フォン・メルクラインのために建てられた。この建物は一区の中でも最も優れたバロック建築の一つである。またこの建物の中には消防隊博物館も入っている。
その隣8番地の濃いピンクの建物は16世紀に建てられ、『細い家 (Das Schmale Haus;シュマーレハウス) 』と呼ばれている。9番地の建物は18世紀に建てられた役所の建物で、ここの4階には近世にウィーン市長の執務室として使われていた部屋がまだ残っている。また、ここの中庭には現在もローマ時代の遺跡の一部が残っており、一般公開されている。(詳しくはここを参照。)
10番地の建物は元々16世紀後半にアム・ホフ広場の後ろのフェルバー小路 (Faerbergasse) に建てられた。その後隣接する建物と結合する形で増築され、アム・ホフ広場に進出した。この建物は1683年のトルコ軍侵攻で大きく破壊されたが、再び修復され、その後は武器庫 (Das Buergerliche Zeughaus) として使用されるようになった。1848年の三月革命の際にはこの武器庫から学生たちに武器が配られ、革命中は国民軍の本部が置かれていたこともある。その後1883年までこの建物は再び武器庫として使われ、以後現在に至るまで消防署の本部がここに置かれている。
10番地、元武器庫 建物正面上部にある三角形の切妻の上には金色の地球儀を支えている二体の石像、『永続性』と『強さ』が立っている。これは皇帝カール六世(女帝マリア・テレジアの父)のモットー “constantia et fortitudo (永続性と強さ)”を擬人化したものである。その左右に立つ人型の鎧と武器はトロパイオンといい、打ち負かした敵の防具・武器を表わしている。さらに中庭に足を踏み入れるとそこには知恵と戦争の女神アテネの像が立つ壁泉が見える。
11番地、広場北側の真中の建物はレーダラー・ホフ (Ledererhof;なめし職人広場) と言う。これは皮なめし職人 (Lederer) の同業組合(ツンフト) 本部がここにあったことからついた名前である。12番地には18世紀に建設されたバロック様式のウルバニハウス (Urbanihaus) が建っている。
マリアの柱 13番地にはコラルト・パレス (Collalto-Palais) が立っているが、この建物は1421年まで北東に位置しているユダヤ人地域(現在のユダヤ広場[Judenplatz])に属していた。フェルディナント一世がここに貴族学校を創立した際、コラルト・パレスの隣にあった教会を下げ渡されたイエズス会に1560年、建物ごと学校の指揮・管理権が委ねられた。1620年フェルディナント二世はこれを陸軍中将コラルト伯爵に贈り、以後この建物はコラルト中将に因んでコラルト・パレスと呼ばれるようになる。現在の建物はしかし、1671年に建て直されたものである。1762年、当時まだ6歳であったモーツアルトはここで初めてピアニストとしての舞台を踏んだと言う。
やはり13番地の王宮広場教会はウィーンで最も古いイエズス会の教会であった。その前に立っている柱は『マリアの柱 (Mariensaeule) 』と言い、これもまたウィーンの由緒のある歴史遺産の一つである。
1645年スウェーデン侵攻を防ぎきったことへの感謝の意をこめてフェルディナント三世はマリアの石柱をここへ立てさせる。だがその後1667年レオポルド一世はこの石柱をブロンズの柱のものへと代えさせたため、現在はこのブロンズ柱がここに立っている。(石柱は現在イン川沿いのヴェルンシュタイン[Wernstein;オーバーエステライッヒ州西のドイツ国境沿いの町]に置かれている。)柱のてっぺんに立つマリア像は地球儀と蛇の上に立ち、柱を支える土台の四つの角にはそれぞれ鎧兜に身を固めた天使が直立し、蛇、竜、バシリスク、ライオンを踏みつけている。これはペスト、戦争、飢餓、異端(信仰)との戦いを象徴しているのである。

場所:一区アム・ホフ広場 (Am Hof)。


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