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フライウンク (Freyung)

フライウンク ショッテン教会が面している趣のある広場フライウンクの歴史は古い。ヴィンドボナ時代はこの地もまた、ローマ軍の駐屯地であった。
12世紀半ば、バーベンベルク家のハインリッヒニ世はドイツのレーゲンスブルクからベネディクト修道士たちを呼び寄せ、当時はまだウィーンの城壁の外にあったフライウンクをベネディクト修道会に委ねたのであった。当時の慣習として修道士たちは修道院周辺地域における亡命者の庇護権も同時に付与された。ここからフライウンク(Freyung;“freien”はドイツ語で『自由にする、解放する』を意味する動詞で、Freyungはその名詞形)というショッテン教会の建つ広場の名前がつけられたのである。

中世の舗装道路跡 その後ハインリッヒニ世は現在のアム・ホフ広場に王宮を造営し、続くウィーンの拡張工事によってフライウンクもウィーン城壁の内側に取り込まれる。その際に教会の西側にウィーンの内と外を繋ぐショッテン門 (Schottentor) が作られ、フライウンクは以後ウィーン市内の重要な広場の一つとして栄えていく。だが当時フライウンクとアム・ホフ広場は現在のシュトラウフ小路 (Strauchgasse) からティーファー・グラーベン (Tiefer Graben) を走るドナウ運河によって分断されていたため、一本の架け橋でこの2つの広場は繋がっていた。(この運河は1456年までここに流れていたそうである。)
また、フライウンクの地下駐車場建設の際にハーラッハ宮キンスキー宮の間にローマ時代の泉の跡と中世後期の路面舗装が見つかった。発掘品は美術史博物館に収蔵されたが、路面舗装は印をつけられそのまま地面に残されている。(左の写真参照。)

この広場は1683年のトルコ軍侵攻により、大きく破壊されてしまった。そのため現在のフライウンク近辺には18世紀以降に建てられた建物ばかりが立っている。このあたりで一番古い建物はへーレン小路 (Herrengasse) のポルツィア宮で、16世紀に建てられた。その後1702年に3番地に立つハーラッハ宮が、1716年に4番地のキンスキー宮が、続いて7番地の箪笥ハウスの名で親しまれているショッテン教会の修道分院が1774年に建てられた。さらに19世紀に入ると1846年に1番地のハーデック宮が、1852年にはモンテヌーヴォー宮、2番地に現在はフェルステル宮の名で親しまれている旧オーストリア=ハンガリー国立銀行が1860年に建てられた。そして一番最後には芸術フォーラムが1921年に完成した。

ポルツィア宮
ハーラッハ宮
バッティアニィ・シェーンボルン宮
キンスキー宮
旧ショッテン教会修道分院
ハーデック宮
モンテヌーヴォー宮
旧オーストリア=ハンガリー国立銀行、又はフェルステル宮
クンストフォーラム
オーストリアの泉

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ポルツィア宮 (Palais Porcia)

ポルツィア宮は16世紀半ば頃、無名の市民建築家によってフェルディナント一世の財務官のために建てられた。建物の入り口は柱頭に渦巻装飾を持つトスカナ風の飾り柱で装飾され、ルネッサンス様式を色濃く表わしている。
この建物は1662年にポルツィア候の所有となり、それ以来ポルツィア宮の名で呼ばれている。1750年にはさらに国家の所有となったため、それを記念して大きな金色のオーストリアワッペンが入り口上部に据え付けられた。
住所:へーレン小路 (Herrengasse) 23番地。

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ハーラッハ宮 (Palais Harrach)

ハーラッハ宮 ちょうどショッテン教会の正面あたりに立つハーラッハ宮は、1683年のトルコ軍侵攻で焼き払われた元ハーラッハ宮の跡地に1690年から1702年にかけて建てられた。そのため所有者の名から建物にもハーラッハ宮という名がつけられた。
このハーラッハ宮の正面右側、へーレン小路 (Herrengasse) に面した翼部には聖母マリアの無垢受胎に奉献された礼拝堂が安置されている。これは18世紀前半に建築が開始され約100年後にようやく完成したもので、聖母マリアを描いた天井画等、美しい内装が目をひく。
第二次世界大戦において残念ながらこのハーラッハ宮も大きく破壊されてしまい、後に不完全ながら修復された。だが1970年にハーラッハ家の相続問題が持ち上がり、邸宅の内部を飾っていた主な絵画コレクションは他の場所に移され、建物そのものも1975年に売り払われてしまったことでハーラッハ宮の凋落に拍車がかかった。1990年にようやくハーラッハ宮はオーストリアの主要な銀行の一つであるクレジットアンシュタルト銀行に買収され、全面的な改修工事を施され現在に至る。
なおこの建物の北側、へーレン小路とフライウンクに挟まれている三角形の部分には芝生が植えられ、ちょっとした緑が目を楽しませてくれる。ここには昔、下にも出てくる建築家のヒルデブラントが四阿(あずまや)と共に造園したという小さな庭園があったそうである。だが都市拡張工事や戦争などによってこの四阿と庭園は跡形もなく取り壊されてしまった。今ではそのなごりとして芝生とパーゴラ(ツタをからませるアーケード)が残るのみである。
住所:フライウンク3番地。

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バッティアニィ・シェーンボルン宮 (Palais Batthyany-Schoenborn)

バッティアニィ・シェーンボルン宮 クロアチアの高官であったバッティアニィが当代一の建築家であったフィッシャー・フォン・エアラッハに作らせたのがこの建物で、1706年に完成した。これはエアラッハが手がけた数々の都市邸宅のうちで最高傑作であるとも言われている。だが1740年にはバッティアニィの未亡人がこれをショーンボルン=ブッフハイム家に売却し、以来この建物はバッティアニィ・シェーンボルンの名で呼ばれている。
レン小路に面した建物の正面部分は中心が重点的に装飾されており、重厚な雰囲気を醸し出している。入り口の上部にはやや前に張り出したバルコニーが据え付けられ、その上部にはさらにバッティアニィ家の紋章が知恵と戦時の栄誉を表わす二体の像に挟まれて架けられている。(邸宅の芸術的価値は高いようだが、外壁の手入れはあまりされていないらしく私のような素人には『見栄えのしない古い家』のようにしか見えないのも事実である。)この屋敷の内部も非常に豪華なもので、特に「赤のサロン」と呼ばれている部屋はウィーンでも指折りのサロンに数えられていると言われている。
住所:レン小路 (Renngasse) 4番地。

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キンスキー宮 (Palais Kinsky)

キンスキー宮 へーレン小路を隔ててハーラッハ宮の向かいに立っているのがキンスキー宮である。この建物は18世紀ウィーンの著名な建築家であったヒルデブラント (Johann Lukas von Hildebrandt) によって1713年から1716年にかけて建てられた。これはほぼキンスキー宮から直線真向かいのレン小路 (Renngasse 4) に立ち、ヒルデブラントのライバルであったフィッシャー・フォン・エアラッハの作による上記のバッティアニィ・シェーンボルン宮への挑戦状として建てられたもので、ウィーンの代表的なバロック建築の一つにも数えられている。(蛇足だがキンスキー宮は内も外もよく手入れがなされており、見た目にはバッティアニィ・シェーンボルン宮よりもずっと美しいように見える。)
元々この邸宅は帝国伯爵ダウン(フルネームは長いので略)のために建てられたが、キンスキー宮天井画後の1764年に上記のハーラッハ宮を再建させたフェルディナント・ハーラッハに売却された。ハーラッハ伯はさらにこれをハーラッハ家の一員であったローザ・キンスキーに贈り、そこからキンスキー宮の名前がつけられた。後にこのキンスキー宮はウィーン社交界の中心サロンともなり、貴族たちの密会の舞台ともなったらしい。
キンスキー宮の内部は一部無料で公開されているので、時間がある方は是非一度足を踏み入れられることをお薦めする。シンデレラ系の御伽噺の中に出てくるような貴族的豪華絢爛な屋敷の内装の一部をゆっくり見て回ることができるのだ。特に三階の天井画は必見である。詳細はキンスキー博物館のページを参照。
住所:フライウンク4番地。

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旧ショッテン教会修道院分院

ショッテン教会修道院分院 1773年から1774年にかけてベネディクト修道会の建築家ツァッハ (Andreas Zach) によってショッテン教会墓地の跡地にこの建物は修道分院として建てられた。(関係ないがこの墓地の名前は『鳥の歌声の中で (im Vogelsang)』という名前であったそうである。死者たちが安らかに眠れるように……との願いがこめてあったのだろうか。)ツァッハはこの建物の外装を同時代の邸宅のようにアクセントをつけて装飾したりせず、どの階もほぼ同様に簡素に形作った。(この建物の簡素さはフライウンクに立つ他の建物と外装を見比べてみるだけで、すぐにわかる。)このシンプルさは約10年後にパラヴィッチーニ・フリース宮(王宮内の項、宮廷図書館とヨーゼフ広場のページ参照)が、約130年後にロースハウスが建てられた時と同様、大きな反発と反響をウィーン市民の間に惹き起こした。(ウィーン市民は伝統的で派手な建物を好むのか?)さらに口の悪い市民たちは、丸く削られた角や、ほぼ均等な高さに配置された階層を持つこの建物を揶揄して『箪笥ハウス (Schubladkastenhaus) 』というあだ名までつけてしまった。

この建物は主に牧師や修道院長の居住区として、またショッテン教会修道士たちのための学習室として使用され、余った部屋は市民たちに賃貸された。後に建物の一階は店舗用にと改造され、上階の部屋も全て住居用に賃貸されるようになった。
住所:フライウンク7番地。

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ハーデック宮 / Palais Hardegg

フライウンクの1番地に立つのがこのハーデック宮で、1847年に帝国伯爵ハーデックのために高級賃貸マンション(?)として建てられた。伯爵自身家主として建物内に住んでいたらしい。現在この建物は様々な省庁の執務室として使用されている。
住所:フライウンク1番地。

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モンテヌーヴォー宮 / Palais Montenuovo

トルコ人騎馬像 フライウンクとアム・ホフ広場を繋ぐ短い通りに立つこの邸宅は1851年から1852年にかけて、後のモンテヌーヴォー侯爵(当時の名前はナイッペルク[Neipperg]で、1864年に侯爵位を得た際イタリア風のモンテヌーヴォーに改名)のために建てられた。
この建物は別名『異教徒の射撃 / (あるいは)弾丸 (Heidenschuss)』という名で有名である。(因みに建物が面している小路の名前もここから取られ、同名である。)モンテヌーヴォー宮の正面を眺めてみるとすぐに目につくのだが、馬に乗り刀を手にしたイスラム教徒の像が置かれているのだ。この像にまつわる有名な伝説がある。
第一次トルコ軍侵攻(1529年)の際の話である。ここでは一人のパン焼き徒弟が昼も夜もなく働き続けていた。ある夜、この徒弟と仲間たちは地面の下から聞こえてくる奇妙な物音を耳にした。そのため地下への扉を開けてみると、「アラー!!」という叫び声と金属のぶつかり合う音が聞こえてくるではないか。トルコ軍が地下道を通ってウィーンに侵入してくることを悟った徒弟たちは慌てて危急を市民たちに知らせ、地下道に大量の水を流し込んだ。そのためトルコ人は全て溺れ死んでしまい、ウィーンは救われたという。(一説にはこのあたりにトルコ人が仕掛けた地雷を夜勤中のパン焼き徒弟が見つけたとも言う。)この時の手柄としてウィーンのパン屋たちは1809年まで毎年イースターの火曜日に特別な行進をすることが許されるようになったそうである。
だがこの伝説も事実に基づくものではないようだ。実際には1274年という早い時期にこの場所にあった家とサラセン人の像(あるいは標章)についての記述が残されている。
住所:シュトラウフ小路 (Strauchgasse) 1-3番地。

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旧オーストリア=ハンガリー国立銀行、又はフェルステル宮
(Ehemalige Oesterreichisch-Ungarische Nationalbank, Palais Ferstel)

フライウンク側のフェルステル宮入り口 この建物は1856年から1860年にかけ、建築家フェルステル (Heinrich von Ferstel) によって早期ルネッサンス様式とロマネスク様式で建てられた。これは銀行だけでなく様々な用途で用いられることが決まっていたため(喫茶店、事務所、株式市場等)、多目的機能に重点を置いて建てられた。また、この建物は3本の通りに囲まれた複雑な形の土地に建てられたため、フェルステルは建物内部の設計にも苦労をしたらしい。そのため、フェルステル宮の内部も込み入った形をしている。フライウンクから見たフェルステル宮はハーデック宮ハーラッハ宮に挟まれ、それほど大きいように見えないのだが、実は末広がりに建物が広がり、それぞれの通りに面して出入り口が合わせて3つもあるという変則的な形をしている。だが彼は調和のある整った空間を作り出し、内装を含め建物全体を一つの芸術作品として具現することに成功した。
フェルステル宮内部 上述したようにこの建物には様々な店舗が入ったが、その中心にフェルステルは自ら設計したドナウの水の精の泉 (Donaunixenbrunnen) を置いた。この泉にはニンフだけでなく三体の男性像(本を持った騎士、漁網と銛を手にした漁師、農[工?]具を手にした農民[職人?])が置かれ、フェルステル宮の多目的性を暗示しているかのようである。この泉が置かれている広場の上部にはガラスの天井が張られ、趣のある落ち着いた雰囲気を醸し出している。
ここに入っていた証券取引所は1878年にショッテンリンクのボルゼ (Boerse) に移転してしまった。またその少し前にはウィーンの有名カフェツェントラル (Central) がへーレン小路沿いのスペースに入り、19世紀後半から第一次世界大戦頃まで多くの芸術家や文豪の集まるサロンとして賑わっていた。このカフェは1982年から同じ場所で再び営業を続けている。カフェの他にも古道具屋や美術商、雑貨屋等様々な店舗が入っており、それらのショーウィンドウは通行人の目を楽しませてくれる。
またシュトラウフ小路とへーレン小路の角の入り口上部にはガッサーによる12体の男女像が置かれている。これは当時のオーストリア帝国の12の異なった文化を有する人民たちを表わしている。
フェルステル宮も他の建物同様第二次世界大戦において大きく破壊されてしまったが、1978年から1986年にかけての修復工事によって現在の姿に甦った。
住所:フライウンク2番地、へーレン小路14番地。

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芸術フォーラム (Kunstforum)

この建物は1916年から1921年にかけて当時のクレジットアンシュタルト (Creditanstalt) 銀行のために建てられた。1988年に現代建築家のパイヒル (Gustav Peichl) によって改装されたのが現在の芸術フォーラムである。この改装は1989年のエゴン・シーレ展覧会開催のためにたった4ヶ月間という短い期間内に行われた。
パイヒルは銀行として建てられた歴史的建造物を芸術鑑賞の場へと作り替え、新しい命を古い建物に吹き込んだ。建物の正面を飾る簡素だが人目を惹くアクセントもパイヒルの作品で、直径2mもあるという入り口上部の金色の球はフライウンクの真珠を象徴しているという。
改装以来この建物は美術館として使用され、これまでに様々な催し物を開催してきた。(詳細はクンストフォーラムのサイトを参照、ただし独語のみ。)
住所:フライウンク8番地、レン小路 (Renngasse) 2番地。

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オーストリアの泉 (Austria-Brunnen)

オーストリアの泉


上述した『箪笥ハウス』の前には『オーストリアの泉 』と呼ばれる大きな泉がある。これは1846年ウィーン市民からの寄付で制作された。
泉の上に一本の柱を囲むようにして立っている四体の男女像は、オーストリア帝国を流れる四本の大きな川(ドナウ、ポー、エルベ、ビスワ川)を象徴している。またこの四体の銅像のさらに上に立っている一体の女性像は城壁冠をかぶり、槍と紋章付きの盾を持っているが、この像こそが泉の名前であるオーストリアを象徴している。
長い間この銅像の中にはオーストリアに密輸された葉巻が入っているという噂があった。これらの銅像はミュンヘンで制作されてウィーンに運ばれたのだが、ウィーン到着後あまりにも早く銅像が立てられてしまったため葉巻が取り出されなかったというのである。だがこれが根も葉もない噂であることは後の改修工事の際に確かめられた。


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(C) Hana 2001-2002