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グラーベン (Graben)

グラーベンとはドイツ語で堀を意味し、ローマ時代から中世にかけてこの地はその名の通りウィーンの外堀であった。だがバーベンベルク家のレオポルド五世の時代にリチャード獅子心王の莫大な身代金が支払われると、ウィーン拡大のためにこの堀は埋め立てられる。
これ以後グラーベンはウィーンの商業の中心として栄え、中世にはここに多くの市が立っていた。だが近代に入るとこういったグラーベンの庶民的な要素は姿を消し、名門市民や貴族のための優雅で瀟洒な高級商業地区へと変わっていく。そのためここには主にアールヌーヴォー様式や分離派の建物が並んでいる。以下にグラーベンのみどころについて述べる。


ペスト記念柱(三位一体柱像)
グラーベンの泉
ハースハウス
エクイタブル宮
アンカーハウス
グラーベンホフ
シューリン宝石店その1
オーストリア貯蓄銀行
18番地軽騎兵像



ペスト記念柱 (Pestsaeule)または三位一体像柱 (Dreifaltigkeitssaeule)

ペスト記念柱 唯一ここでバロック様式のものが、グラーベン中央に位置する壮大な三位一体像柱、いわゆるペスト記念柱である。これは1679年にウィーンでペストが猛威を振るったため、当時の皇帝レオポルド一世がペストの終息を願って制作させたものである。この柱は1679年に木で作られ、後に現在の大理石造りの柱へと取り換えられる。
この制作に携わったのはラウフミラー (Matthias Rauchmiller) であったが、彼は1686年にトルコ軍がウィーンを包囲した際に亡くなってしまう。その後皇帝にペスト柱完成を命じられたのが皇室お抱えの建築家ブルナッチーニ (Ludovico Ottavio Brunachini) とエアラッハ (Bernhard Fischer von Erlach) であり、この二人の他にも多くの彫刻家や聖職者が柱の制作に携わった。
柱そのものは上から順に天・地・地獄を表わしている。三位一体という柱の宗教的テーマはイエズス会神父メネガッティが定め、それに従って柱の台座は三方に広がり、台座側面のにはそれぞれ二つずつ宗教的なテーマに沿って浮き彫りがされている。それらの西側の台座には『エヴァの創造』と『大洪水』、西側には『最後の晩餐』と『過越祭(すぎこしさい)』、そして正面の台座側面には『ペストの終息』(この浮き彫りをよくよく観察してみると背景にはシュテファン寺院が彫られているのが見える)と『聖霊降誕の奇跡』という題がそれぞれついている。これらの浮き彫りは全てヨハン・ベンドル (Johann Bendl) によって制作された。『最後の晩餐』の浮き彫りの中で使徒たちの後ろのカーテンに半分隠れた人物がこのベンドルだと言われている。
『信仰がペストを打ち負かす』 また三方に広がった台座の先には一旗ずつ紋章と共に金造りの旗が掲げられている。これらの旗はそれぞれオーストリア(双頭の鷲)、ボヘミア(二本の尻尾を持ったライオン)、ハンガリーの旗であるが、これはキリスト教の三位一体にかけたハプスブルク家の三位一体を意味している。
台座の正面部分には『信仰がペストを打ち負かす (Glaube besiegt die Pest)』という題のついた彫刻像があり(天使[信仰]が悪魔[ペスト]に勝利している、左の写真参照)、その上部には神の前に冠を脱ぎ、跪いて祈っている皇帝レオポルド一世の像が置かれている。この像を見ると当時のペストに対する考え方がうかがえる。つまりペストに打ち勝つためには衛生的な習慣やまともな食生活、薬などではなく、信仰が必要とされていたのである。
この大理石の柱は1692年にようやく完成し、現在の場所に立てられた。


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グラーベンの泉 (Graben-Brunnen)

ヨーゼフの泉 グラーベンの泉は現在二つあるが、15世紀半ばあたりに一つ目が、16世紀に二つ目の存在が確認されており、片方の泉にはジュピターの像が立っていたという。だが1804年皇帝フランツ二世がこの二つの泉に聖ヨーゼフ(キリストの養父)と聖レオポルド(つまりバーベンベルク家のレオポルド三世)の像を立てるように命じ、それ以来この二つの泉はヨーゼフの泉とレオポルドの泉と呼ばれるようになる。
ペスト記念柱の西側、貯蓄銀行 (Sparkassengebaeude) の正面にあるヨーゼフの泉の像の前には一人の男の子が立ち、聖ヨーゼフの家系図を掲げている。またこの泉の台座の前後には、受胎告知とその後のエジプトへの避難を描いたレリーフが彫られている。
ヨーゼフの泉と対をなすレオポルドの泉の聖レオポルドの像は旗を持って立っており、その前にもやはり男の子の像が立っている。この男の子は聖レオポルドが創設した修道院クロースターノイブルクの設計図を掲げ、台座のレリーフには修道院にまつわるベール伝説とこの修道院の建築の様子とが彫られている。
またヨーゼフの泉の左右にはアールヌーヴォー時代(1905年)の地下トイレへの入り口がある。(泉に向かって正面右が紳士用、左が婦人用トイレである。)これは20世紀初頭のトイレとしては現在残されている唯一のもので、文化遺産として保護されている。


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グラーベンの主な建築物

ハースハウス (Haas-Haus)

ハースハウス ケルントナー通りを通ってグラーベンへと入るとまず目に入るのが鏡張りの派手な建物ハースハウス(シュトック・イム・アイゼン広場6番地)である。これはウィーンの著名な現代建築家ハンス・ホラインによって設計され、1990年に建てられた。
元々この場所には1867年に建設されたウィーン初の百貨店ハースが立っていた。だがこの建物は1945年に破壊されてしまい、1953年に再び新しい店が建てられるのだがこれも現在のハースハウスを建てるために取り壊されてしまった。 ハースハウスが建てられた当時は由緒あるウィーンのど真ん中、シュテファン寺院の向かい側にあまりにも現代的な建物が出現したことで、ごうごうたる非難が巻き起こった。だがそれから10年たった今ではそんなこともほとんど忘れ去られてしまったようで、今ではこのビルもウィーンのシンボル的建物の一つとなりつつある。
ハースハウスの近況についてはここも参照のこと。


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エクイタブル宮 (Palais-Equitable)

エクイタブル宮 このハースハウスの真向かい、ケルントナー通りとグラーベンの角に立つのがエクイタブル宮である(シュトック・イム・アイゼン広場3-4番地)。これは1890年から1891年にかけ、アンドレアス・シュトライトの設計に基づいて新バロック様式で建設された。(ウィーンにおける新バロック様式の建物の中でも最もすぐれたものの一つと言われている。)
この建物は19世紀末にニューヨークからウィーンにやって来た『エクイタブル保険会社』のために建てられたため、その名がつけられた。左の写真には写っていないが屋根の上にはブロンズでできた船の模型があり、その下部の屋根の正面と左右にはやはりブロンズの鷲の像がある。船は保険会社が海を渡ってはるばるウィーンまでやって来たことを意味し、三羽の鷲はハプスブルクの鷲ではなくアメリカの鷲を意味している。それらの像は保険会社の本国アメリカの象徴として、建物の上部に据え付けられた。建物正面の青銅の扉にはシュトック・イム・アイゼンの伝説の浮き彫りが描かれ、さらにこの建物の角には現物のシュトック・イム・アイゼンがガラスケースに入れられて飾ってある。(詳細についてはケルントナー通りのページ参照。)
現在この建物にはオーストリアの名門ガラス工房アウガルテンやドイツの高級ステンレス鍋店WMFなどが入っている。
またあまり知られていないことだが、この建物の中に入って一階部分のみ美しい内装を見学することも可能である。ただし建物内の事務所や商店の好意から内部への立ち入りが許されているので、静かに静かに中を見回ることが求められている。興味のある人は正面玄関の扉を押して中へ入ってみるといいだろう。


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アンカーハウス (Ankerhaus)

アンカーハウス エクイタブル宮から少し前を行くと同じ左側の10番地に優雅なアンカーハウスが見える。これは下述するグラーベンホフの建設にも携わったオットー・ヴァーグナーが当時のアンカー保険会社のために建てた建物で、現在でも保険会社の名からアンカーハウスと呼ばれている。これはまたウィーンに現存する唯一のヴァーグナーによる店舗の入った建物(日本風に言えばテナントビルか?)でもある。
シュピーゲルガッセ (Spiegelgasse) に面した角のてっぺんには美しく大きな屋根とガラス張りのアトリエがある。このアトリエは昔写真スタジオとして使われていたが、その後フンデルトヴァッサーのアトリエとなった。(だがこのフンデルトヴァッサーも昨年亡くなってしまったため、現在は誰のアトリエとなっているのだろうか?)


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グラーベンホフ (Grabenhof)

グラーベンホフ グラーベン中ほど、ペスト記念柱の正面に立っている建物がグラーベンホフ(グラーベン14−15番地)である。これはオットー・ティーネマンの設計に基づき、郵便貯金局を建設したオットー・ヴァーグナーによって1873年から1876年にかけて建設された。
この建物は後期ルネッサンス様式の要素を色濃く受け継いでいる。そのためグラーベンホフが後にテオフィル・フォン・ハンゼネスによって部分的に増築された際にも全体的な調和を乱さないよう、細部に至るまで厳密にこの様式で設計された。
グラーベンホフ建設以前にはここに二つの建物が立っていた。現在のグラーベンホフは写真を見てもわかる通り5階建てのもので、地階を除いた上の4階部分は上下にはっきりと分けてデザインされている。


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シューリン宝石店その1 (Schullin I)

シューリン宝石店その1

グラーベンホフの向かい側にある26番地の建物の地階の少し変わったデザインの店がシューリン宝石店で、上述したハースハウスの設計者であるハンス・ホラインによって1972年から1974年にかけて制作された。
写真を見てわかる通り、壁の中にボッカリと開いた穴が非常に特徴的である。だがこの穴はただの飾りとして開いているだけでなく、穴の中には金属のパイプが通り、換気孔としての役目も果たしている。これは装飾的芸術と実用性を兼ねている点で、オットー・ヴァーグナーによる 郵便貯金局内の換気孔と非常に似通った着想の元に作られたと言える。
このシューリン宝石店1とコールマルクト7番地にあるシューリン宝石店2はホラインの代表的な店舗作品である。また、グラーベンのシューリン宝石店1のデザインによってホラインはウィーン一区におけるファサード(建物の正面部分)デザイン分野に新風を吹き込んだとも言われている。


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オーストリア貯蓄銀行 (Oesterreichische Spar-Casse)

ハースハウスの反対の端にあり、上述したヨーゼフの泉の後ろの建物がオーストリア貯蓄銀行 (グラーベン21番地) である。この建物はアロイス・ピッヒル (Alois Pichl) によってビーダーマイヤー式の装飾を排した新古典主義様式で設計され、1838年に完成した。上を見上げると屋根の三角破風に金色の蜜蜂が見えるが、これは『蜜蜂のように勤勉に働け』というモットーを意味している。またこの銀行の正面には二本の柱が立ち、石床は青いタイルと平石を組み合わせた少ししゃれた作りになっている。これは黒い柱が水を、白い柱が光を表わし、石床は地面を意味していると言う。

貯蓄銀行の蜜蜂

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18番地の軽騎兵像 (Husar)

オーストリア貯蓄銀行の向かい、コールマルクトとグラーベンの角に立つ18番地の建物の上を眺めてみると一体の軽騎兵の像が立っているのが見える。この像は昔ここに入っていた狩猟用品店の看板の名残であると言う。(が、『ウィーン 旅の雑学ノート』の著者山口さんは19世紀までここにあった旅行用品店ツーム・ファザレンの看板だと書いている。多分この説が正しいのであろう。私の情報は人からの又聞きである。)

さらにグラーベンの建築物については、参考文献でも挙げた『ウィーン 旅の雑学ノート』80−88ページ参照。


軽騎兵像

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