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ケルントナー通り (Kaerntnerstrasse)

ケルントナー通りの名が初めて文書の中出てくるのは1257年のことである。だが既に12世紀の終わり頃、バーベンベルク家のレオポルド五世がウィーンを大規模に整備・発展させた際にこの通りは作られた。ケルントナー通りは南はケルンテン州を通ってヴェネチアまで通じ、遠隔地貿易の大動脈としてウィーンのさらなる発展に寄与した。ケルントナー通りの名前もケルンテン州の『ケルンテン (Kaernten)』に由来している。南からはるばる運ばれてきた商品は現在のノイヤーマルクト (Neuer Markt) まで運ばれ、そこで売買されたという。
この重要な商業街道は19世紀になると今日のような目抜き通りへと変わり始め、拡張工事のために古い建物の多くが取り壊されてしまった。さらに第二次世界大戦においてもケルントナー通りは大きな被害を蒙ったため、現在残っているバロック時代の遺物は41番地のエスタルハージー宮と37番地のマルタ騎士団教会の外側正面部分のみである。


ケルントナー通り前半分あたり
オイゲン公冬の館
シュトック・イム・アイゼン(釘の刺さった株)
金の杯 



ケルントナー通り前半分あたり

ケルントナー通りのモザイク画『東洋と西洋』 それではオペラ座からシュテファン寺院に向かって順にケルントナー通りの主な建物を見ていこう。
まずオペラ座のすぐ裏側のケルントナー通り左手にある建物が日本人に大人気のホテルザッハである。ウィーンの名物ザッハトルテはこのホテルの創始者エデゥアルト・ザッハの父親フランツ・ザッハが19世紀前半に作り出した(ということになっている)チョコレートケーキである。さらに先に進むと、アンナ小路の手前の角にある右側41番地の建物が上にも書いたエスタルハージー宮である。これは17世紀の半ばに建てられたもので、19世紀後半にエスタルハージー家の手に渡ったことからその名がついた。現在この建物の最上階にはカジノ Cercle Wien が入っている。
今度はアンナ小路 (Annnagasse) を右に曲がってみよう。この通りを少し進むと3b番地にゴシック様式で建てられたアンナ教会 (Annnakirche) が見える。この教会は15世紀の終わり頃建てられ、1531年には聖クラリス修道会の修道院となり、1572年に教会はさらにイエズス会へと譲渡される。1773年にイエズス会がこの教会を去ると修道院の建物の方は何度か所有者が変わった後に酒場(!)となり、1887年に取り壊されてしまった。現在の教会は18世紀にバロック様式で改修工事されたものである。その際に聖女マリアの処女懐胎をテーマとする天井のフレスコ画や大祭壇の絵等の素晴らしい芸術作品が制作された。また、1510年頃作られたとされる、教会入り口上部の聖母マリアと幼児のキリストを抱く聖アンナ像も見過ごすことができない。アンナ教会以外にもこの小路には美しいゴシック様式の建物がいくつか立っている。
ケルントナー通りに戻ろう。アンナ小路から先に行くとまた右側に今度はヨハンネス小路 (Johannesgasse) がある。この小路とケルントナー通りの角、37番地には14世紀に建設されたマルタ騎士団教会が立っている。その反対側には左側26番地には1823年に創立された王室御用達のガラス工房ロブマイヤー (Lobmeyer) がある。ここの3階は1987年からガラス博物館となっており、数々の美しいガラス細工を眺めることができる。(詳細情報はこちら。)さらに歩くとやはり左側16番地(デパートシュテッフル[Steffl]の向かい)に分離派芸術家ファイト (Veith) によって描かれた美しいモザイク調の壁『東洋と西洋』を見ることが出来る。


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オイゲン公冬の館

オイゲン公冬の館 ケルントナー通りからヨハンネス小路と平行して走るヒンメルプフォート小路(Himmelpfortgasse;天国の門小路)を右に曲がると右手8番地に横に長い壮大な建物が現れる。これはオイゲン公(1663−1736)の冬の館で、ヒルデブラントやフィッシャー・フォン・エアラッハといった当代随一の建築家らによって17世紀の終わりから18世紀にかけて建てられた。この建物には全部で三つの正面玄関があり、それぞれの入り口の左右にはギリシャ神話などをテーマとした浮き彫りがはめ込まれ、美しく装飾されている。(浮き彫りの主題: 東;『ヘクトルの遺体とアキレス』・『ゴーゴンの首を持ったペルセウス』、真中;『ヘラクレスとアンタイオス』・『アイネイアスとアキレス』、西;『戦争』・『平和』)
館の内装も一流の芸術家によって贅を尽くして作られた。だがこの建物には現在税務署が入っており、見学することは残念ながらできない(らしい)。オイゲン公の死後、この館は公の蔵書とともにハプスブルク家に売られてしまう。1752年に建物は山林局の本部となり、1848年から現在に至るまで税務署として使われている。


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シュトック・イム・アイゼン (Stock im Eisen)

シュトック・イム・アイゼン(釘の刺さった株) ケルントナー通りをさらに進んで行くと、グラーベンとの角、エクイタブル宮 (Equitable-Palais) の壁のガラスケースの中に釘のたくさん刺さった古いトウヒの木の株が飾られているのが見える。これがこの広場の名前シュトック・イム・アイゼン(釘の刺さった株)の由来である。この切り株が文書で初めて言及されたのは何と1533年のことであるので、少なくとも450年も前から切り株がそこにあったということになる。無数の釘が木に打ち込まれるようになったのには様々な伝説があるが、そのうちの一つは次のようなものである。
まだバーベンベルク家のレオポルド三世がウィーンへと遷都する前の話である。ある錠前徒弟が木の切り株に鉄の帯をぐるりと巻き、錠前で帯の端と端を閉じてしまった。その後徒弟はウィーン市に錠前の鍵の代金を請求したが拒否されてしまったため、鍵を天に投げ、自分はそのまま消えてしまった。(不思議なことに鍵はその後落ちてこなかったそうなので、この徒弟はどうやら悪魔であったらしい。)そこでウィーン市は錠前を開けた者には賞金を出すと布告した。だが、錠前師が鍵を作っても見えない手が現れて鍵の歯の位置を変えてしまうため、誰もこの錠前に合う鍵を作ることが出来なかった。そこである賢い徒弟が鍵の歯を逆につけてみると、見えない手はその歯を正しい位置へと戻してしまったため、徒弟は鍵を完成させることができた。この時からウィーンに修行しに来た錠前徒弟たちは成功を祈ってその切り株に釘を打ちつけることが習慣となったと言われている。
だが実際のところこれはいつのまにか広がった習慣のようで、実際に確固とした理由があるわけではないらしい。


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金の杯

金の杯 この木の株の斜向かい、シュトック・イム・アイゼン広場の2番地に見える瀟洒な建物は『金の杯 (Zum goldenen Becher) 』と呼ばれている。これは1894年にアレクサンダー・フォン・ヴィーレマンスによって設計された商店とアパートが入った建物で、優美な曲線を持つ角と壁の全面に描かれた美しい壁画が特徴的である。しかし1945年、爆撃によってこの建物は大きく破壊されてしまい、戦後になって簡略化された形で修復作業が行われた。そのため『金の杯』の名前の由来となっている、金の杯を持った少年像は今も欠けたままである。(写真の中の下から2段目の階の中央のくぼみにその像は立っていたという。)
この金の杯の由来は次のようなものである。1549年(つまり宗教改革の時期)にプロテスタントのパン焼き徒弟があるカトリックの司祭の聖体顕示台を地面に投げつけたために罰として両手を切られ、舌を引っこ抜かれ、終いには火刑に処されてしまった。この出来事があってから建物の入り口にはなぜか木の聖体顕示台が立てられるようになり、1894年に新しく建物が建てられた時には金の杯を手にした少年の像までが飾られるようになったようである。だが、金の杯と聖体顕示台の相関関係は不明である。


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