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コールマルクト (Kohlmarkt)

シュテファン寺院を背にしてグラーベンをまっすぐに歩いていくと、コールマルクトに行き当たる。コールマルクトはグラーベンから王宮裏手のミヒャエル門にまで通じる短い通りであるが、昔ここで木炭(ドイツ語で炭はコール[Kohl])が売られていたことから、炭市場を意味するコールマルクトという名がつけられた。またこの通りはケルントナー通りと同様に中世遠隔貿易の出発点であった。コールマルクトはまずマリアヒルファー通りへ入り、そこからさらにリンツ、北バイエルン、ライン川流域にまで通じていたのである。
今日この通りは昔木炭が売られていたとは思えないほど洗練され、有名カフェデーメルやルイ・ヴィトン、老舗書店といった一流の店が建ち並び、高級ショッピング街といった様を呈している。


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レッティ蝋燭店、シューリン宝石店その2、他

グラーベンを左に折れてコールマルクトに入るとまず右手の2番地に細く、高い建物が目に入る。これは1909年にウィーンの代表的な産業建築家であるフリードリッヒ・シェーンによって分離派様式で建てられた。上を見上げると二体のアールヌーヴォー的女性像が下を見下ろしているのがわかる。ここには現在スコットランド・ウェールズ系の高級洋服店ブリュール (Bruehl) が入っているが、地価の高騰による家賃値上げで店を畳む予定であるらしい。(この傾向についてはここを参照。)

コールマルクト2番地店 →建物右上部の女性像アップ ひさしに座る女性像

さらに前に進むとやはり右側に8-10番地にレッティ蝋燭店 (Retti) と宝石店コンヴィ (Convis) が入っている古い建物が見える。このレッティ蝋燭店の店舗はグラーベンのハースハウス等を手がけた現代建築家ホラインによる最初の建築作品である。1964年から1965年にかけて作られたこの店舗の正面はアルミニウムで覆われ、入り口の扉部分がT字型のガラス張りで、コールマルクトでは非常に斬新な雰囲気のデザインとして際立っている。このT字型はスカンジナヴィアの火屋(ほや)付き蝋燭の形によく似ているのだと言うが、実物を見たことのない私にはピンと来ない。その向かいの7番地の建物の中にあるのがシューリン宝石店2である。この店舗もやはり上記のレッティ蝋燭店のを設計したハンス・ホラインによるもので、1981年から1982年にかけて作られた。この店舗はグラーベンのシューリン宝石店1は異なり、厳密な左右対象にこだわって設計された。店舗正面入り口の扉上部には弓型をした金属板(?)が掲げられ、それを支えるニ柱の柱や全部で四つのショーウィンドウなどと共に優雅で現代的な雰囲気を放っている。
また、シューリン宝石店2の隣の店はフーバー&レルナー (Huber & Lerner) という名前のやはり高級文房具店で、大統領や首相などもここで名刺を注文するのだと言う。(この文具店も上記の家賃値上げ現象により移転してしまった。)


下の写真は上述したホラインの代表的な店舗建築であるレッティ蝋燭店とシューリン2号宝石店である。

レッティ蝋燭店 シューリン2号店



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アルタリア・ハウス (Artaria-Haus)

アルタリアハウス

この7番地の隣、9番地の建物は1901年から1902年にかけてアールヌーヴォー建築家マックス・ファビアーニによってアルタリア地図会社のために建てられた。このアルタリア・ハウスは1900年前後のウィーン建築を代表する建物として有名である。
瀟洒なアルタリア・ハウスの特徴として挙げられるのが、まず変わった形をした窓である。この窓は前にいくらか張り出しているのだが、一つの窓が三部分に分けられ、そのうちの左右の部分が直角ではなく、鈍角を作って壁へとつながっている。文で表現すると難しいので、断面図にしてみると、/ ̄ ̄\こんな形の窓である。さらに上を見上げると屋根も前へと張り出し、美しい蛇腹模様を見せている。
コールマルクトではこの建物と2番地の建物だけが他の建物に比べいくらか後退して建てられているのだが、これは世界第一次大戦前のコールマルクト拡張計画の名残である。


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デーメル (Dehmel) とマンツ書店 (Manz)

マンツ書店 アルタリア・ハウスの斜め向かいに立つ14番地の建物の中にウィーンの名物カフェデーメルが入っている。デーメルの始祖はドイツのヴュッテンブルク出身のルードヴィッヒ・デーネ (Ludwig Dehne) で、1786年にデーメルの前身であるサロンをミヒャエル広場に開店させる。1857年にこのサロンがクリストフ・デーメルへと売却され、後に『デーメル』の名を冠したカフェが誕生するのである。だがフランツ・ヨーゼフによるウィーン市内の堡塁撤去作業に伴い、ミヒャエル広場に立っていたデーメル店も取り壊されてしまう。そのため1888年現在のコールマルクト14番地に新デーメルが誕生する。
2000年の秋にはデーメル内にマジパン博物館も開館した。そこではマジパン細工だけでなく、後にデーメルのディスプレイや内装に携わったフェデリコ・ベルツェヴィツィ・パラヴィッチーニ (Federico Berzeviczy-Pallavicini) のデザインによる包装紙やディスプレイ用の金の木馬なども見ることができる。博物館についての詳しい情報はこちらに書いてある。
デーメルの隣、16番地の建物の中に入っているマンツ書店 (Manz) は王室御用達の出版社兼書店であった。この書店はミヒャエル広場のロース・ハウスの設計者アドルフ・ロースによって設計されたが、彼が設計した部分は現在正面の玄関・ショーウィンドウ部分にしか残っていない。


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ミヒャエル・ハウス (Michaeler Haus)

ミヒャエルハウス入り口 コールマルクトの端、11番地にはミヒャエル・ハウスが立っている。この建物は1720年頃に建てられた古い建物で、ここには二人の有名人が住んでいた。一人はオーストリア出身の大音楽家ハイドンで、もう一人はイタリア出身の王宮詩人で、隣接するミヒャエル教会に葬られているピエトロ・メタスタシオ (Pietro Metastasio) であった。当時18才であったハイドンはここで1750年から数年間不遇の時を過ごしていたらしい。
この建物の入り口の写真を見てみると、入り口の左右に赤い文字で No 1152 と書いてあるのがかろうじて読める(上の写真参照)。まだウィーン市内に建物がそれ程なかった時代には、それぞれの通りごとではなく市内中の建物にそれぞれ番号をふってあったのである。この1152という数字はその当時の番地割り振りの名残で、キョロキョロしながら町を歩くとウィーンの古い建物には往々にしてこのような数字が書いてあることがある。

このミヒャエル・ハウスの入り口をくぐって中庭に入ってみるとバロック様式の馬小屋(ここは現在どこかの洋品店の仕事場になっているらしく、お針子さんたちが働いているのが窓越しに見える)や美しいパヴラッチェン等を見ることができる。それだけでなく、隣のミヒャエル教会を違った角度から眺めることもできるため、時間がある人にはこの中庭をゆっくり眺めてみることをお薦めする。(中庭には観光客も足を踏み入れられる。)

パヴラッチェン 元厩舎、今洋裁店(?)

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