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ヴィンドボナ

ヴィンドボナの起こり
ヴィンドボナの繁栄と北方民族の侵入
民族大移動の開始とヴィンドボナの没落



ヴィンドボナの起こり

日本ではあまり知られていないことだが、ウィーンは元はと言えばローマ帝国軍の駐屯地であった。ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus) は帝国の平和を維持するため、当時アルプス山脈で区切られていた帝国の境界をさらに北方に拡大することに積極的で、紀元前15年頃から領土の拡大を開始する。そのためアルプス・ドナウ地域及びライン川とエルベ川に居住していたゲルマン人はローマ帝国軍によって征服され、あるいはさらに北方に追いやられ、後にはドナウ川がローマ帝国の北方境界線となる。このようにして現在のオーストリアはほぼ三つの属州に分けられる。それがフォアアールベルク州、北チロルとスイスを含むラエティア(あるいはレティア;Raetien) 州、東チロル、ケルンテン州、シュタイヤーマルク州、ザルツブルク州とオーバーエステライッヒ州を含むノリクム (Noricum) 州とウィーン高原からニーダーエステライッヒ州、ブルゲンラント州にまたがるパンノニア (Pannonien) 州であった。
またトラヤヌス帝 (Trajanus) は紀元後1世紀頃ドナウ川沿いに辺境防壁 (Limes) を建設し、北方の蛮族の対して帝国の守りを強化した。しかしウィーンの東から北東にかけては地形的に何の守りもなかったので、同時期に帝国軍駐屯地カヌントゥム (Carnuntum;ウィーンから50kmほど東に現在もある町)の側面を援護する目的でもう一つの駐屯地ヴィンドボナ (Vindobona) が作られた。ドナウ川とウィーンの森に囲まれた守りやすく、攻め込まれにくい地形が軍事的に有利だと判断されたのであろう。この『ヴィンドボナ(ヴィンドの財産?)』という名前はケルト語の地名に由来しているのではないかと推測されている。
さて、そうするとこの時代から現在のウィーンの中心地である一区の一部に入植が開始される。その当時の駐屯地の様子は今日でも一区のあちこちで見ることができる。例えば、王宮裏のミヒャエル広場 (Michaelerplatz) にはローマ時代の遺跡がそのまま残されている。ここは当時盛り場であったらしいが、その他にも墓碑などがここで見つかっている。また、アム・ホフ広場の9番地では駐屯地の水路の一部を見ることができる。その他ホーアー・マークト3番地では5mほど地下に今も残っている佐官の家の遺跡なども見られる。(詳しくはここここを参照。)当時のヴィンドボナはごくごく小さな規模の駐屯地で、数百人ほどの兵士がそこに駐屯していたに過ぎなかった。
では実際の駐屯地ヴィンドボナとはどのようなものだったのだろうか?それは四方を3mほどの厚さの壁にぐるりと囲まれた南北500m、東西455mの、たった18.5ヘクタールほどの土地のことであった。

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ヴィンドボナの繁栄と北方民族の侵入

紀元後2世紀に入った頃、ノリクム州とパンノニア州北部地域には平和が訪れ、ヴィンドボナに少しずつ商人 や職人といった一般市民も増えてくる。一般市民たちは現在の3区あたり、つまり駐屯地の周辺に町を作り、そこに居住していた。
ヴィンドボナの最盛期には駐屯地とその周辺部合わせておよそ35,000人ほどの人間が居住していたと思われる。当時ローマ帝国の北方の境界線上に位置していたヴィンドボナではローマの平和のもとゲルマン人とローマ人、あるいは北方の異教文化ととローマ文化とがぶつかり合い融合し、コスモポリタン的な多文化社会が形成されていたようである。
しかしこのドナウ中流地域の平和も長くは続かない。マルコマンニ人とクアディ人がペストや東方でのパル ティア人との戦いによる国境ローマ兵の弱体化をついて169年から170年にかけてドナウ地域に侵入を開始し、南イタリアまで入り込んで来る。このため北方の駐屯地や都市は大きな被害を被ったが、 これに対するローマ軍の反撃ははかばかしいものではなかった。
だが、マーク・アウレル帝 (Mark Aurel) が自らドナウ地域に赴き積極的に北方の敵を撃退した結果、171年クアディア人と講和を結ぶことに成功する。174年にはさらにマルコマンニ人とも講和が結ばれるが、従来の北方境界線をさらに拡大するまでには至らなかった。【→映画“Gladiator”参照】
こうしてヴィンドボナに再び平和が訪れる。時の皇帝セプティミウス・セヴェルス帝 (Septimius Severus) は戦乱の中でも変わらぬ忠誠をローマ帝国に尽くした属州パンノニアに感謝の意をこめて、都市復興のための経済援助を行う。街道が再び整備され、駐屯地も新しく整えられ、国境地帯の経済活動はこうして再び活発化してくる。その後212年には、国境都市ヴィンドボナはローマ皇帝カラカラ (Caracalla) からローマ自治都市として承認されるに至る。
ドナウ国境地帯ではその後半世紀ほど平和な時代が続くが、258年から260年にかけてまたもや複数の北方民族が辺境防壁を破壊してドナウ地域に侵入してくる。ローマ帝国はそれらの民族の略奪行為を阻み、秩序を回復させることはできたが、後には譲歩を余儀なくされ個々のゲルマン民族が国境地域の属州に移住することを容認してしまう。このようにしてローマ帝国の北方属州における影響力は少しずつ衰えていく。

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民族大移動の開始とヴィンドボナの没落

東方と北方からの圧迫は次第に強まり、ヴァレンティニアン帝 (Valentinian) は4世紀後半ヴィンドボナ付近の辺境防壁をもう一度強化する。当時の駐屯地の煉瓦工場で製造された煉瓦が後に辺境防壁の拠点のあちこちから出土したことは当時の作業を物語っている。
しかし375年にはゲルマン民族の大移動が始まる。中央アジアから進出したフン族がドン川を超え、東ゴートを滅ぼす。東ゴートの後はアラン人、ヴァンダル人や西ゴート族などもフン族に圧迫され、ローマ帝国内に続々と侵入して来る。だが、378年西ゴートに対し壊滅的な敗北を蒙ったローマ帝国に、これらの民族の侵入を阻止する力はもはや残っていなかった。
5世紀の初めになるとフン族によって国を失ったゲルマン民族(スエービ族、ヴァンダル人、アラン人等)はパンノニアを通って西へと向かいながらローマ帝国国境地帯に荒廃と貧困とをもたらし、同じ頃ヴィンドボナも最期の時を迎える。ヴィンドボナの砦も町もゲルマン民族によって破壊し尽くされる。駐屯地の遺跡にはあらゆる所に火事の爪跡が残っており、当時の火災の規模の大きさをうかがわせる。
ローマ帝国は今一度軍隊を国境地帯に派遣し、秩序の回復を図ろうとするがその試みは失敗に終わり、辺境防壁は破壊される。ただ一度を除いてこれらの出来事を記した文書の中で国境都市ヴィンドボナについて語られることはない。このことは国境都市ヴィンドボナの存在意義の消失を明らかに示している。 433年にローマ帝国はついにヴィンドボナを含むパンノニア州をフン族に譲渡することを余儀なくされる。
ヴィンドボナはその生活地帯を大部分を破壊され、一部の住民はイタリアに移住してヴィンドボナを去って行った。しかし残った住民は駐屯地の北東部分の破壊を免れた地域に一つの強固な砦を囲むようにして再び生活を始めたようである。この砦こそが中世に入ると周辺住民を守護するウィーン最初の城様の建物となる。
民族大移動開始後6世紀頃までは当時の詳細な状況を記述した文書が欠如しているため、現在では大まかな推移についてしかわかっていない。それゆえこの期間はよく『暗黒の数世紀』と呼ばれている。
この期間ランゴバルド人やアヴァール人をはじめとする様々な民族が入れ代わり立ち代わりドナウ地域で戦いと定住とさらなる移動を繰り返していた。この混乱を鎮め、再び秩序をもたらしたのは8世紀後半に現れたカロリング朝のカール大帝であった。


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