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ハプスブルク家勃興

ハプスブルク家の起源
大空位時代
ルドルフ一世
オットカール二世の最期
アルブレヒト一世



ハプスブルク家の起源

元々ハプスブルク家はスイスのブルック (Brugg;バーゼルのほぼ東、ライン川のスイス最大の支流アーレ川沿いの町) の弱小伯爵家であった。ハプスブルクという名前も大鷹或いは鷲 (Habichit) の城 (Burg) という意味で、その歴史は10世紀後半頃から始まったらしい。
現在わかっているハプスブルク家の一番古い始祖はグントラム (Guntram) であるとされているが、さらに家系を遡れば既に7世紀頃からエルザスの伯爵であったエティヒョ(Eticho;片仮名表記自信無し)にも辿りつくとも言われている。 グントラムの孫でクレットガウ (Klettgau; スイス北端のシャフハウゼン州の北西にある町)の伯爵であったラートボート (Ratbod) とルドルフ(この人物がハプスブルク家初のルドルフとされている)の兄弟がそれぞれアールガウ州のムーリ(Muri; チューリッヒ南西の町)と上エルザスのオットマースハイム(Ottmarsheim; バーゼルの北に位置するライン川沿いの町)に修道院を建立した。(余談だがこのオットマースハイムの修道院はアーヘンにあるカール大帝の礼拝堂に倣って八角形に建てられた。さらにそのアーヘンの礼拝堂で後にハプスブルク家のルドルフ一世は神聖ローマ帝国皇帝に戴冠される。)そのほぼ同時代にやはりハプスブルク家の一員であったヴェルナーがシュトラスブルクの司教となったこともわかっているが、これが上記のラートボートの兄弟なのか息子なのか、詳しいことはわかっていない。そしてこのヴェルナーが11世紀の前半にアーレ川とロイス川の合流点のブルックにハプスブルク家の名前の由来となった鷲の城を建てた。初めて正式にハプスブルク伯爵と名乗ったのはラートボートの孫にあたり、1111年に亡くなったとされるオットーニ世である。
その後ハプスブルク家はシュタウフェン家の傘下に入り、順調に勢力を拡大して行く。しかし1232年には当時の神聖ローマ帝国皇帝であったシュタウフェン家のフリードリッヒ二世が亡くなり、その息子のコンラート四世も1254年に亡くなった。これによって俗に言う大空位時代 (Interregnum;1256〜1273) が始まる。これはまたハプスブルク家にとっても大きな転機となった。

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大空位時代

新しい神聖ローマ帝国皇帝を選定するのにあたって、各諸侯たちの利害関係が真っ向から衝突し、実質的な皇帝が不在の期間が以後20年程続いた。その間イングランド王の弟コーンウォール伯リチャードやカスティリア王アルフォンソ十世が皇帝に選ばれもしたが、両者とも名ばかりの皇帝であった。コーンウォール伯リチャードは短期間ではあったものの神聖ローマ帝国を訪れたこともあったが、アルフォンソ十世に至ってはこの地に足を踏み入れることもしなかった。コーンウォール伯リチャードが1272年に亡くなると、アルフォンソ十世がまだ存命であったにも関わらず次の神聖ローマ帝国皇帝の座を巡っての駆け引きが始まる。
前ページにも記した通り、1962年にコーンウォール伯リチャードによってベーメン、オーストリアそしてシュタイヤーマルクに封じられたオットカール二世は次の神聖ローマ帝国皇帝の座に就くという大きな野望を持っていた。しかしオットカール二世の強大になり過ぎた権力が逆に選定侯の不安を煽り、さらには彼が自分の教皇との関係を過信したあまり選定侯には十分な根回しをしていなかったことも災いした。新皇帝には大空位時代に着実に地歩を固め、教皇の信頼も手に入れたスイスの弱小伯爵ルドルフ一世が選ばれたのである。

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ルドルフ一世

オットカール二世からは『貧乏伯爵』と嘲笑され、選定侯からはその弱小さ故に皇帝に選出されたルドルフ一世(1218-1291)であったが、彼は機知とユーモアに富み、人心を掴むことに巧みな人物でもあった。ルドルフ一世が比較的低い家柄と政治的影響力の小ささにも関わらず皇帝の座に就けたのには、当時の権力情勢に加えて彼自身の政治・交渉能力に負うところが大きい。また彼は時の流れを見ぬくことにも長けていた。
一例を挙げればルドルフ一世はイタリアにおける覇権の拡大に熱心であったシュタウフェン家傘下の一員として教皇と敵対関係にあったにも関わらず、コンラート四世が亡くなった年の1254年にすぐさま教皇と連絡を取り、皇帝となったあかつきには神聖ローマ帝国領地であったナポリとシチリアを放棄する心づもりを告げている。しかしその一方でシュタウフェン家にもある程度の忠誠は尽くし、コンラート四世の息子、コンラーディンのイタリア出兵を援助することも忘れない。その見返りにルドルフ一世は皇帝選挙においてシュタウフェン家勢力を味方につけることにも成功した。
教皇との約定によって、ルドルフ一世戴冠の後の神聖ローマ帝国のイタリアにおける勢力は格段に弱まったが、彼はこの喪失や皇帝選挙のために必要とした費用をアルペン地域の勢力拡大によって補おうとする。その格好の標的はオットカール二世の領地オーストリアであった。まずルドルフ一世と選定侯は皇帝選挙の後、1245年以降に行われた帝国財産譲渡の無効を宣言した。それによってコーンウォール伯リチャードによって授封されたオットカール二世の封土も自動的に帝国に帰属することとなり、ルドルフ一世は彼のオーストリア領地を自分のものとする口実を作ることができた。
オットカール二世は当然のことながらこの決定を無視し、逆に決議の変更を求める。そこで1275年、ルドルフ一世はさらにオーストリアだけでなくベーメンとモラヴィア領もオットカール二世から剥奪する旨を宣言した。さらに翌年の1276年にオットカール二世は教皇からも破門の宣言を受ける。しかしそれくらいで恐れをなしておいそれと逃げ出すようなオットカール二世ではない。そこでルドルフ一世はあちこちの諸侯に根回しをして同盟を結びつつオーストリアに向けて出兵し、1276年の10月にウィーンを包囲する。5週間に渡ってオットカール二世はウィーンに篭城したが結局降伏し、同年の11月にルドルフ一世とオットカール二世の間に講和条約が結ばれた。これによりオットカール二世に対する帝国追放宣言は取り消され、ベーメンとモラヴィア領を手元に残すことも許可された。しかしウィーンを初めとしてシュタイヤーマルクやケルンテンなどのオーストリア領はルドルフ一世に没収され、ここにハプスブルク家初のオーストリア領主が誕生したのである。

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オットカール二世の最期

しかしルドルフ一世とオットカール二世はその後さらに細かい領地分割に関して妥協点を見つけることができず、結局交渉は決裂した。そして1278年、両者はニーダーエステライッヒ州デュルンクルト (Duernkrut) とイェーデンシュパイゲン (Jedenspeigen) 間のモラバ川 (March; 現在オーストリアとスロヴァキア国境を流れる川)で激しく衝突した。
しかし実力伯仲、決着は中々つかず戦況は膠着状態に陥った。その均衡を破ったのはルドルフ一世が当時の騎士道に悖りながらも、敵軍の側面に隠して温存しておいた予備兵力であったと言う。この予備兵力の突然の出現に驚かされたオットカール二世の軍は不意を付かれて潰走を始めてしまう。また、オットカール二世自身もその時敵軍の虜となってしまった。(他方で戦死したという説もある。)
その後どうやらオットカール二世は彼を深く恨んでいた貴族たちから暴力制裁を受け、惨めに殺されてしまった。しかしこの事実はルドルフ一世にとっても誇るべきものではなかったらしく、彼は教皇に対し、勇敢に戦ったものの深い手傷を負ったオットカール二世は敵軍の騎士たちに馬から下ろされ、そのまま亡くなったと書き送っている。

オットカール二世の遺体は真っ裸のままウィーンへと運ばれ、フランチェスコ会修道士たちに引き渡された。しかし彼は亡くなった時も教会から破門されたままであったため、まともな葬儀も営まれず、遺体はそのまま30週間もウィーンに置かれたままであった。その後遺体はようやくオットカール二世の故郷のプラハへと移送され、そこで正式に埋葬された。
一時は飛ぶ鳥を落とす勢いであった時の権力者が惨めに殺され、葬儀も営まれなかったというこの事実は、中世キリスト教の盛者必衰の理に適ったもので、ハプスブルク家がオーストリアに君臨することが神の意志であると解釈する向きもあった。いずれにせよこれはオーストリア歴史至上非常に大きな転換点となり、両雄の衝突はその語何度も文学や舞台、絵画などのテーマとして取り上げられるようになる。

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アルブレヒト一世

ルドルフ一世の後継者として全オーストリア領を受け継いだのは息子のアルブレヒト一世 (1255-1308) であった。元々はアルブレヒト一世がオーストリア領主、その弟のルドルフ二世がシュタイヤーマルク領主と1282年に定められたのだが、周囲の強硬な反対があり、アルブレヒト一世にハプスブルク領の全権が委ねられることとなった。(この変更が後にハプスブルク家の内部分裂を招くこととなる。)ルドルフ一世がオーストリア領主となって数年後にその後を継いだアルブレヒト一世の時代には、ハプスブルク家はまだ新領主としてオーストリア貴族や市民の絶対的承認を得ていたわけではなかった。そのためアルブレヒト一世はその統治期間中、反ハプスブルク勢力を制圧することに忙殺され続けた。

まずは1288年にウィーンの手工業者が暴動を起こした。これはアルブレヒト一世がウィーンにこれまで与えられてきた数々の特権を取り消し、スイス商人たちを優遇したためであった。この暴動はすぐさま鎮圧されたが、首謀者が厳しく罰せられただけでなく、ウィーン市の帝国直属都市というステータスも剥奪され、ウィーン市とアルブレヒト一世の間の溝も深まった。
その後1291年にルドルフ一世が亡くなるとアルブレヒト一世にはさらに大きな危機が迫る。生前のルドルフ一世の働きかけも空しく、神聖ローマ帝国新皇帝にはアルブレヒト一世ではなく、ナッサウ伯のアドルフが選ばれてしまったのだ。そしてこのナッサウ伯アドルフはアルブレヒト一世と仲の悪かったザルツブルク司教やオットカール二世の息子のベーメン王ヴェンツェル二世などを抱き込み、ハプスブルク家のオーストリア領にジワジワと食指を動かしてきた。この危機はアルブレヒト一世が機転をきかせ、和平を結ぶことによって回避されたが、1295年には本格的な反乱が起きる。この年にはアルブレヒト一世が亡くなったとの噂が流れたため (注1)、それを真に受けたシュタイヤーマルクの諸侯たちが反旗を翻したのである。しかし存命であったアルブレヒト一世はすぐさま自身で反乱勢力を殲滅する。この時ウィーン市はこの反乱に加担せず、アルブレヒト一世の側についた。これまでウィーンに対し頑なな態度を守ってきたアルブレヒト一世もこれを高く評価し、ウィーン市とハプスブルク家の新しい友好関係はここから始まる。

注1:
この時アルブレヒト一世は本当に病気であったらしい。医師の診断は中毒(或いは何者かによる毒殺未遂か?)で、体から毒をぬくために荒療治が行われた。それは逆さにして足を吊るし、毒を排出させるという療法で、この時の鬱血が元でアルブレヒト一世は片目を失明してしまった。


1298年には多くの諸侯を敵に回したナッサウ伯アドルフから神聖ローマ帝国皇帝の位が剥奪され、その後をアルブレヒト一世が継ぐ。さらにアルブレヒト一世はこの機会を逃さず、神聖ローマ帝国皇帝の地位をハプスブルク家において世襲可能にするための運動を始めた。これに反発する諸侯も多かったが、既にハプスブルク家の権力は強大なものとなっており、アルブレヒト一世に正面から立てつく者はいなかった。
しかし反アルブレヒト勢力はハプスブルク家内にもくすぶっていた。上述したアルブレヒト一世の弟ルドルフ二世はオットカール二世の娘と結婚し、ヨハンという息子をもうけていた。その後ルドルフ二世は若くして亡くなったが、成長したヨハンは父に与えられ、後に没収されてしまった領地シュタイヤーマルクの返還を求める。その代わりとして彼はシュヴァーベン領を手に入れたが、ベーメン王族とハプスブルク家の血を継ぐヨハンは自分こそがアルブレヒト一世の息子たちよりも正統なハプスブルク家領主だとの考えを捨てきれない。そのためヨハンは反アルブレヒト勢力に加わり、1308年にアルブレヒト一世を暗殺した。(それ以後ヨハンは『Parricida(親戚殺し)』との異名と共にその名を呼ばれるようになった。)

志半ばにして凶刃に倒れたアルブレヒト一世の次の神聖ローマ帝国皇帝には、アルブレヒト一世の息子ではなく、ルクセンブルク公ハインリッヒが選ばれた。


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(C) Hana 2002