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中世ウィーンとバーベンベルク家

ヴィンドボナからウィーンへ
ウィーンの興隆
ハインリッヒニ世治下のウィーン
レオポルド五世
ウィーンの最盛期
バーベンベルク家の最期
新領主オットカール二世



ヴィンドボナからウィーンへ

771年にフランク族カロリング王朝の皇帝となったカール大帝はフランス全土を統一した後、東へと領土拡大を開始した。791年から799年の間にカール大帝は当時ドナウ地域に定住していたアヴァール人を征服し、この地域を『アヴァール辺境領』と名付け、キリスト教の影響下に置くことに成功する。これを機にウィーンで最も古い教会であるルプレヒト教会岸辺のマリア教会ペーター教会 などが建てられたとされている。そしてこれ以後ウィーンは再び活気づき、経済活動も盛んになってくる。 
その間北方のモラヴィア国とカロリング王朝との摩擦は続く。そして外圧が本格的にカロリング王朝の脅威となってきたのはハンガリーの騎馬民族マジャール人が870年から880年頃カロリング王朝の東領域に侵入してきた時であった。
ちょうどその当時の出来事がザルツブルク年代記の中で881年に“ad Uueniam (=in Vienna)”、つまりウィーンにおいてハンガリーとの戦闘があったと語られている。ウィーンという名前が文書の中に現れるのはこれが一番最初のことであるが、これがウィーンという都市そのものを指しているのか、同じ名前の川のことを指しているのかは明らかでない。しかしこのような衝突はカロリング王朝にとっては来るべき災厄の前兆でしかなかった。
907年にアヴァール辺境伯レオポルドに率いられたバイエルン軍はプレスブルク( Pressburg; ウィーンのほぼ真東にあるオーストリア・スロヴァキア国境沿いの町)において大敗を喫し、辺境伯は戦死しカロリング王朝はアヴァール辺境領を失う。ドナウ流域における経済は再び停滞し、ウィーンはその後一世紀以上もマジャール人の支配下に置かれる。中世の大叙事詩ニーベルンゲンの歌はこのバイエルン軍の壊滅的敗北をモチーフに書かれたとも言われている。
だが破竹の勢いであったマジャール人も955年にアウグスブルク (Augusburg; ミュンヘンの北西にある町)でザクセン朝第二代国王であり、後の神聖ローマ帝国の初代皇帝となるオットー一世に敗れて以来、その軍事力にも翳りが見えてくる。

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ウィーンの興隆

その後オットー皇帝治下の所領は976年オットー二世を経てバイエルン貴族であり、バーベンベルク家の始祖となるレオポルド一世に継承される。(このレオポルド一世はマジャール人との戦いにおいてプレスブルクで戦死したアヴァール辺境伯レオポルドの曾孫であるとも言われているが、確かなことはわかっていない。)
996年オットー二世の贈与証明書の中に初めて『オーストリア(Ostarrich;オスタリチ)』という名前が出てくる。これは東 (ost) の王国 (rich) という意味である。 (現在ではこの年がオーストリア誕生の年とされ、1996年にはオーストリア千年祭が盛大に祝われた。)1030年には再び“Vienni (ウィーン)”という地名がハンガリーとの戦争に関する記述の中に現れる。11世紀前半頃のウィーンはハンガリーとオーストリアの国境上に位置しており、領土争いの中で非常に重要な焦点であったらしい。
レオポルド一世の使命はドナウ流域の政情の安定をはかり、マジャール人によって失われた地域を再び奪回することであったが、その志半ばにして994年に亡くなってしまう。レオポルド一世の死後、ハインリッヒ一世がさらに東征を続け、その次のアダルベルトの代において11世紀前半ウィーン一帯はようやくバーベンベルク家の支配下に入る。
その後バーベンベルク家はレオポルド二世やレオポルド三世らの結婚政策によって次第に力を強めていった。特にレオポルド三世のシュタウフェン家のアグネスとの結婚はバーベンベルク家にとって意味のあるものであった。彼女はなんと18人もの子供をレオポルド三世との間にもうける。レオポルド三世はその子供たちをハンガリー、ボヘミア、ポーランド、東ローマ帝国などと姻戚関係を結ばせることにより平和で安定した時代を築き、オーストリアはその後大いに潤う。この時代にはクロースターノイブルクを始めとするいくつもの教会が建てられ、ドナウ沿いのウィーン、クレムス、トゥルン、シュタインといった重要な商業都市も発展してくるのであった。また、クレムスにはオーストリア初の造幣工場も建設される。

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ハインリッヒ二世治下のウィーン

レオポルド三世の死後息子のレオポルド四世がその後を継ぐ。彼は異父兄弟で、神聖ローマ帝国皇帝であったホーエンシュタウフェン家のコンラート三世(つまりレオポルド三世の妻アグネスが最初の結婚で産んだ子供)からバイエルンを拝領する。だがバイエルン公爵の地位を手に入れて間もなくレオポルド四世は死に、その後を兄弟のハインリッヒ二世が継ぐ。しかしわずか数年後にバーベンベルク家はホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家をめぐる争いに巻き込まれ、バイエルンを放棄せざるを得なくなる。その見返りとして1156年ハインリッヒ二世は神聖ローマ帝国からオーストリアにおける特権(das Privilegium Minus あるいは der Kleine Freiheitsbrief) を授与され 、これまでよりも拡大されたオーストリア領を辺境領から格上げされた大公領として得、さらににバーベンベルク家のオーストリアにおける主権も正式に承認される。
東ローマ帝国皇帝の姪テオドラと結婚したハインリッヒ二世はバイエルンを放棄した後レーゲンスブルク(Regensburug;バイエルン地方の都市、ミュンヘンの北東に位置する)からウィーンに居を移し、1155年に当時のウィーンの西城壁の外側(現在のウィーン一区のアム・ホフ広場 [Am Hof Platz] )に王宮の建設を始める。これ以後ウィーンはバーベンベルク家の居城都市となり、代々の当主はウィーンにある王宮を居城とした。(ハインリッヒ二世以前のバーベンベルク家の居城はクロースターノイブルクにあった。)
ハインリッヒ二世の夫人テオドラは遠いギリシャから多くの侍女や護衛兵などの供を付き従えてウィーンにやって来た。そのためウィーンに初めて数多くのギリシャ文化や慣習が持ち込まれ、この時期におけるオーストリアの地理や歴史、物理などの学問はギリシャからの新しい刺激によって大きく発展した。その一例としてより高度で複雑な数学を可能にしたアラビア数字が挙げられる。
またハインリッヒ二世はアイルランド人修道士をわざわざレーゲンスブルクから呼び寄せて王宮と同時にショッテン教会も建設した。このようなハインリッヒ二世のウィーン発展にかける努力は実り、1172年ウィーンは初めて『主都』と呼ばれるに至る。

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レオポルド五世

ハインリッヒ二世の後を継いだレオポルド五世もまたオーストリアの領地拡大と発展のために力を尽くす。
1192年シュタイヤーマルク領主オタカ(Otakar)は後継者のないままこの世を去り、シュタイヤーマルクはバーベンベルク家の支配下に入る。 またレオポルド五世は1190年第三回十字軍遠征にも参加し、アッコン陥落の際に大きな働きを示した。
この時レオポルド五世は白い上着を着ていたのだが、戦いが終わった後にはその服が血で真っ赤に染まっていた。ただ刀を下げるための幅広のベルト下の部分だけが白く残っていたため、これ以後赤白赤の色がオーストリア国旗として、あるいはオーストリアの紋章の背景として使われるようになったと言う。(だがこのエピソードはもちろん伝説であり、実際はレオポルド五世の十字軍遠征以前すでにこの赤白赤の旗は使用されていたらしい。元来赤と白の二色は東ローマのビザンチン皇帝の色であり、レオポルド五世の母方の血筋はビザンチン帝国に帰することなどを考え合わせると、オーストリア国旗の起源はどうやらビザンチン帝国にあったらしい。)
だがレオポルド五世にまつわる逸話はこれだけではない。彼は十字軍遠征の際、イギリスのリチャード獅子心王にひどい侮辱を受け、1191年故郷に戻る。そしてその約一年後、1992年の10月リチャード獅子心王もイギリスに帰国することを決意するが、ジブラルタル海峡を渡らねばならない海路は秋には危険で、彼は陸路を通ってイギリスへの帰国を果たそうとする。だがライバルのプランタジネット朝のフィリップ二世の領地であるフランスは通るわけにいかない。そこで彼はドイツを通ることに決めるが、ウィーン周辺でレオポルド五世に捕らえられてしまう。そして高額な身代金(15万マルク、わかりやすく言えば銀10トン分相当)が獅子心王解放のかたに要求される。いかに富裕なイギリスと言えど、それだけの身代金を払うことは容易でなかったらしい。所得税は収入の25%と定められ、市民の動産は差し押さえられ、普段ならば非課税のシトー派修道会にまで税が課せられただけではなく、四つの教会の金器までが徴収されて溶かされてしまったと言う。それでも身代金を一度に工面することはできず、身分の高い貴族を何人もリチャード獅子心王の代わりに人質としてオーストリアに差し出すことでようやくリチャード獅子心王は解放された。
余談であるが、日本でもお馴染みのイギリスの英雄ロビンフッドもこの事件に関係している。と言うのも伝説の中では、リチャード獅子心王がオーストリアで囚われている間に欲深で残酷なノッティンガム州の地方行政官が民衆から金を搾り取って私腹を肥やしていた。その悪代官を倒すために戦い、獅子心王の身代金を金持ちの悪人(?)たちから回収してまわったのがロビンフッドとその仲間たちなのである。

この身代金によってウィーンとオーストリアは大いに潤ったが、実際レオポルド五世は身代金全てを受け取ったわけではないらしい。なぜなら1194年に落馬が元でレオポルド五世が亡くなった時に、7人の人質がまだウィーンに残っていたからである。
いずれにせよこの身代金は様々な形でウィーンに還元される。例えばウィーンではこれ以後貨幣の鋳造が始められ、後にウィーン制の貨幣はヨーロッパで随一の貨幣ともなる。その他にはウィーンの城壁が強化され、新しい堀も作られる。古い堀のあったグラーベンはこの時埋め立てられ、市の立つ広場として生まれ変わる。現在のウィーン一区の目抜き通りケルントナー通りノイヤーマルクトもこの当時作られた。(当時ケルントナー通りはウィーンから南にケルンテンまで続く重要な商業街道であり、通りの名前の由来もそこにある。)このような都市整備は、ウィーン発展のさらなるきっかけともなる。
最後に、レオポルド五世のこの誘拐事件が十字軍遠征におけるリチャード獅子心王から受けた侮辱に対する復讐と一般的には考えられている。(特にイギリスの史料はこれが復讐心から起きた出来事であることを強調している。)だがこの事件の動機についてオーストリアの年代記は一様に口をつぐみ、真の理由については語っていない。他方でレオポルド五世は目前の好機を逃さず、現実的に行動しただけだと唱える説もあり、この誘拐事件の動機は正確にはわかっていない。

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ウィーンの最盛期

レオポルド二世の死後は彼の二人の息子フリードリッヒ一世とレオポルド六世が後を継ぐ。フリードリッヒ一世はオーストリア大公の名を継ぎ、レオポルド六世はシュタイヤーマルクを治めることになったが、1198年の十字軍遠征に参加したフリードリッヒ一世はその後すぐにパレスティナで亡くなってしまう。
そのためレオポルド六世がオーストリア大公の地位も継ぎ、オーストリアは再び一人の支配者の下に治められることになる。『栄光に満ちた (der Glorreiche) 』というレオポルド六世の異名が示すように、ウィーンの文化や芸術ははこのレオポルド六世のもとで見事に花開き、多くの吟遊詩人や騎士たちがウィーンをめがけて集まって来るようになる。ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ (Walther von der Vogelweide) やライマー・フォン・ハーゲナウ (Reinmar von Hagenau)、ナイトハルト・フォン・ロイエンタール (Neithart von Reuenthal) といった中世ドイツ語圏有数の詩人たちもレオポルド六世の王宮に滞在していた。
またレオポルド六世はウィーンにいくつかの特権を付与した。そのうちの一つが互市強制権(あるいは開市権)で、ハンガリーへ向かう途中ウィーンを通過する商人は最低2ヶ月の間ウィーンにて商品を販売しなくてはならないと定めるものであった。この互市強制権によってウィーンの商業は大きく発展する。また、この時期には上述したレオポルド五世によってウィーンに建設された貨幣鋳造所で鋳造された硬貨『ウィーンのペニヒ (Wiener Pfennig)』がドナウ流域全般に流通するようになったが、このことはオーストリア経済の上昇を如実に示している。
この時期に建設された建物もミノリート教会ドミニカ教会シュテファン寺院 (現在シュテファン寺院の床下から13世紀以前の遺跡が出てきたため調査中。実はもっと古い時代に建設が開始されたらしいが、まだ発掘調査の結果は公表されていないため詳細は不明) など比較的多くあり、そのほとんどは現在もウィーンに残っている。

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バーベンベルク家の最期

1230年にレオポルド六世が亡くなると、フリードリッヒ二世が後を継ぐ。フリードリッヒ二世の一生は『喧嘩っぱやい (der Streitbare)』という異名の通り戦いと混乱に明け暮れた一生であった。
フリードリッヒ二世が20歳で即位すると間もなくオーストリアの下級貴族たちが反乱を起こすが若きフリードリッヒ二世この反乱をすぐに鎮め、彼の手腕を周囲に印象づける。しかし1235年ハンガリー王ベラ四世との戦いには敗れ、フリードリッヒ二世はウィーンの城壁内にほうほうのていで逃れ入る。その後もハンガリー軍はウィーンの周囲をぐるりと囲んだまま退却する気配を見せないため、フリードリッヒ二世は仕方なくかなりの金を支払ってウィーンから立ち退いてもらう。この埋め合わせをさらに課税することで取り戻そうとしたフリードリッヒ二世は当然のことながらウィーン市民の不評を買い、後で手痛いしっぺ返しをくらう。
またフリードリッヒ二世は神聖ローマ皇帝に恭順の意を示さず、はなはだ無関心な態度を示し続けたため1236年時の神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世(ややこしいがこの二人同名である)に帝国追放を宣言され、封土として拝領していたオーストリアも取り上げられてしまう。その後神聖ローマ皇帝自らウィーンに赴くが、フリードリッヒ二世自身は家族と共にいち早くシュターヘンベルク (Starhemberg) に逃れていたため、ウィーンは神聖ローマ帝国皇帝に開城するのか、領邦君主のために戦うのかの決断を迫られる。(この時ハインリッヒ二世を擁護したのは、リンツ、ヴィーナー・ノイシュタットなど数えるほどの都市しかなかったらしい。)だが決断を下すことはウィーン市民にとってそれほど難しいことではなかったらしく、皇帝にあっさり開城する。
しかしフリードリッヒ二世は諦めない。彼は1239年ウィーンに立てこもった神聖ローマ帝国軍を破り、皇帝と和解することにも成功する。こうしてウィーンは再びバーベンベルク家の下に治められることになり、皇帝からオーストリアを王国として承認するという約束も得る。だがこの約束が実行に移される前にフリードリッヒ二世は1946年、ハンガリー・ボヘミア連合軍との戦いにおいて戦死してしまう。
ここでバーベンベルク家に大問題が持ち上がる。亡くなったフリードリッヒ二世には子供が一人もいなかったのである。後に残されたバーベンベルク家の中で後継権を有していたのは二人の女性であった。フリードリッヒ二世の姉のマルガレーテと姪のゲルトルードである。

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新領主オットカール二世

男子後継者のいないバーベンベルク家治下のオーストリアに神聖ローマ皇帝を擁するシュタウフェン家が大きな関心を示したため、1247年当時未亡人であった二人の女性は大急ぎでバーベンベルク家を継ぐことのできる成年男子と結婚することを迫られる。まずはゲルトルードが結婚したバーデン辺境伯へルマン四世が1249年オーストリア大公として承認されるものの、早くもその一年後に亡くなってしまう。そこで1252年にマルガレーテの年下の夫となったモラヴィア辺境伯オットカール二世 (Ottokar Premysl von Maehren) がオーストリア大公の地位を手に入れる。これに強く反対したのがゲルトルード派のハンガリー王ベラ四世であったが、オットカール二世がシュタイヤーマルクをハンガリーに割譲することでこの問題も解決する。(しかしマルガレーテに子供ができないことを理由にオットカール二世は後に彼女と正式に離婚してしまった。)
この後のオットカール二世は破竹の勢いで領土を拡大していく。 オットカール二世の父親であるボヘミア王が亡くなると、1252年彼はボヘミア王位も継承し、1260年にはハンガリーとの戦いにも勝利し、いったんは割譲したシュタイヤーマルクを再び取り戻す。1269年に彼の従兄弟であるケルンテン伯爵のウルリッヒが子供のないまま亡くなると、労せずしてケルンテンもオットカール二世の支配下に入る。こうしてオットカール二世の領土は東はズデート山地から西はアドリア海の近くまで至り、ハンガリーとボヘミアとオーストリアを統一するという彼の野望は現実に近づいて来る。
しかしオットカール二世が簡単にウィーン市民に受け入れられたわけではなかった。オットカール二世の治世において反対勢力が政権の転覆を図ったことは一度ならずあり、その度に首謀者は厳罰に処された。とは言え、ウィーン市に対してのオットカール二世は(政治的理由から)概して鷹揚に振舞い、ことあるごとにウィーン市はその恩寵を受けた。
例を挙げれば1276年の大火事の後、5年間に渡って免税期間が設けられたり、焼けてしまったシュテファン寺院再建のイニシアチブがとられたりした。また王宮の基礎もオットカール二世によって初めて作られた。
しかし勢いに乗ったオットカール二世の前にいきなり大きな障害が現れる。それがハプスブルク家のルドルフ一世であった。


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(C) Hana 2000-2002